奴隷とプライドの捻じれ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
奴隷扱い
あれは、小学生の頃だったか、山内竜彦はいじめられっ子であった。だが、四年生のあたりから苛めが急になくなってきた。なぜ苛めがなくなってきたのか、そのことすら気にする人がいないほど、山内少年は目立たない子供だった。
確かに、苛めっ子のターゲットが別に移ったというだけで、その子も目立たない子供だった。
苛められて何も言えないと、さらに苛めはエスカレートしてくる。まわりの人間も、見てみぬふりというよりも、心の中では面白がっているというのが、本音であろう。見てみぬふりをしている人は自覚はないかも知れないが、苛めている連中、苛められている子供には、面白がっているのがよく分かった。
それでいて、苛めっ子よりも、いじめられっ子に霊感が強い子が多いようで、苛められないようにしようと思って、霊感で感じたことをまわりにいうと、余計なことをいってしまうことで、皆からsらに苛めを受けることになる。
ワクワクするくせに、まわりで見ているだけの連中は、結局平穏な話に落ち着かないと嫌なのだ。自分に火の粉が掛かってしまうこと嫌うという、陰険さが表に出ないことが苛めの一番の問題なのではないかと思える。
山内少年は、小学生の二年生の頃、ふいに自分に霊感があるという話をし出した。最初は軽く受け流していた連中も、耳が痛くなったのか、まわりを去っていくようになり、そのせいか、自分のまわりに誰もいないことを愚痴るようになったのだ。それをまわりのせいにしているように取られての苛めに繋がったわけだが、最初こそ理由が分からなかったが、次第に苛められる理由がわかってくると、
――この苛めはそうは長くは続かないのではないか?
と感じていた。
苛めっ子だけなら、すぐに飽きるだろうと思ったのだ。
だが、まわりの連中の目がそれを許さなかった。苛めのエスカレートを望むようになり、辞めるに辞めれない。そんな状態を果たして、誰も抑えが利かなくなっていた。
傍観者の中にも程度の差があり、苛めをただ見ているだけの人もいれば、苛めているのを見て。自分も一緒に苛めているかのように錯覚する人もいる。後者の場合は、苛めっ子が苛めを辞めてしまうと、自分がどうなってしまうのかが分からないので、目で圧力を加える。
ここまでくれば、
「苛めっ子が、傍観者から精神的な苛めを受ける」
という構図になってしまう。
そうなると、苛めっ子の方も今までと違って、
「ただ、苛めたいから苛めている」
という感覚ではなくなってしまう。
つまり、苛めの効力は、傍観者にあって、苛めっ子は完全に傀儡になってしまう。操り人形としての自分を苛めっ子はどう考えるのか、操られながら、実際に手を下していることで、変なストレスが溜まってくる。
――本当は辞めたいのに、辞められないなんて――
という思い、これは誰にも分からないだろう。
下手をすれば、いじめられっ子よりも辛いことだ。いじめられっ子であれば、苛められているという実害があるので、辛いということは皆が分かってくれることだが、苛めっ子がまさか悩んでいるなど思ってもいないだろう、
「苛めの問題は傍観者にある」
と言われているが、それは、もっと浅い意味なのだろうが、苛めの本質を、苛めっ子側から見ると、そのジレンマを感じることができるのかもしれない。
「苛めっ子もまた、被害者だ」
ということになれば、負の連鎖が引き起こされ、苛めというものが、半永久的に残っていくのも分かるというものである。
山内少年は、いじめられっ子の立場であったが、小学四年生の頃になると、苛めっ子の悲哀もなぜか分かるようになっていた。
だが、自分が苛められているのに間違いはないので、同情もできない。それがジレンマとなって心の奥に入り込んだ。
そのジレンマは苛めがなくなっても、実は残っていた。心の奥に闇を見ていたのかも知れないが、その心の奥の闇に入り込んできたのが、同級生の村山茂だった。
村山少年も学校では目立たない存在だった。だが、彼が苛められているところを想像することはできなかった。なぜなのかというと、彼には人を寄せ付けないオーラがあった。だから彼のまわりには誰もおらず、気配を消しているところがあったので、誰にも迷惑もかけずに、無難な毎日を過ごしていたのだった。
しかも、彼には、自分で意識している以上に、まわりは彼を意識していなかった。目の前にいても、まったく気づかない、石ころのような存在であった。
だから、苛めに対しても余計な感情を持たない。まわりからは、
「何を考えているのか分からない」
と彼を意識できている人にはそう思わせたのだが、彼もそれを普通に受け入れて、
「そうか、僕は何を考えているのか分からないんだ」
と考えた。
「まわりに流されやすい」
という言葉があるが、それとは少し違う。
流されるというよりも、余計にまわりの影響を受けて、それだけに、まわりが意識しない保護色の様相を呈していたのだった。
その思いは、山内少年と似ていた。だが、山内少年は、気配を消すことができないのでいじめられっ子になった。逆に山内少年は、自分で思っているよりも、まわりに影響を与えているのだろう。
それまで人の間をすり抜けるように生きてきた村山少年は、山内少年を初めて意識した。そのせいで、山内少年も、村山少年を意識するようになったのだが、二人は次第に主従関係に変わっていった。
村山少年が主なのだが、最初に主従を感じたのは、山内少年の方だった。自分が従であるのを、いじめられっ子の意識が強いせいか従に対して、違和感がなくなっていったのだった。
村山少年の方も、それまでの自分が石ころのような存在だったことを忘れてしまったかのように、意識は全集中で、山内少年に向かっていた。
それでも、まわりに対しての石ころの様子は変わりなく、その感覚があるので、村山少年の主の感覚はまわりにはなく、山内少年の従だけが皆に印象として残る。それがまわりに気持ち悪さを抱かせて、それが苛めがなくなる一番の原因だったのではないだろうか。
そんな関係だったなど、小学生の自分たちに分かるはずもなく、苛めがなくなると、山内少年は、村山少年の奴隷になってしまったのだ。
苛めと違って、村山少年の自己都合だけで、山内少年を蹂躙することはなかった。ただ、山内少年は、
「自分は、村山君のものだ」
と思っていたので、村山少年の自己都合であろうが何であろうが、関係なかった。
だが、村山少年は、
「自分が主になった以上、自分だけの都合で理不尽な命令はできない」
と思ったのだ。
それをしてしまうと、
「他の連中がしていた苛めと変わらなくなるどころか、苛めを誘発する傍観者の無言の圧力と変わらないのではないか?」
奴隷扱い
あれは、小学生の頃だったか、山内竜彦はいじめられっ子であった。だが、四年生のあたりから苛めが急になくなってきた。なぜ苛めがなくなってきたのか、そのことすら気にする人がいないほど、山内少年は目立たない子供だった。
確かに、苛めっ子のターゲットが別に移ったというだけで、その子も目立たない子供だった。
苛められて何も言えないと、さらに苛めはエスカレートしてくる。まわりの人間も、見てみぬふりというよりも、心の中では面白がっているというのが、本音であろう。見てみぬふりをしている人は自覚はないかも知れないが、苛めている連中、苛められている子供には、面白がっているのがよく分かった。
それでいて、苛めっ子よりも、いじめられっ子に霊感が強い子が多いようで、苛められないようにしようと思って、霊感で感じたことをまわりにいうと、余計なことをいってしまうことで、皆からsらに苛めを受けることになる。
ワクワクするくせに、まわりで見ているだけの連中は、結局平穏な話に落ち着かないと嫌なのだ。自分に火の粉が掛かってしまうこと嫌うという、陰険さが表に出ないことが苛めの一番の問題なのではないかと思える。
山内少年は、小学生の二年生の頃、ふいに自分に霊感があるという話をし出した。最初は軽く受け流していた連中も、耳が痛くなったのか、まわりを去っていくようになり、そのせいか、自分のまわりに誰もいないことを愚痴るようになったのだ。それをまわりのせいにしているように取られての苛めに繋がったわけだが、最初こそ理由が分からなかったが、次第に苛められる理由がわかってくると、
――この苛めはそうは長くは続かないのではないか?
と感じていた。
苛めっ子だけなら、すぐに飽きるだろうと思ったのだ。
だが、まわりの連中の目がそれを許さなかった。苛めのエスカレートを望むようになり、辞めるに辞めれない。そんな状態を果たして、誰も抑えが利かなくなっていた。
傍観者の中にも程度の差があり、苛めをただ見ているだけの人もいれば、苛めているのを見て。自分も一緒に苛めているかのように錯覚する人もいる。後者の場合は、苛めっ子が苛めを辞めてしまうと、自分がどうなってしまうのかが分からないので、目で圧力を加える。
ここまでくれば、
「苛めっ子が、傍観者から精神的な苛めを受ける」
という構図になってしまう。
そうなると、苛めっ子の方も今までと違って、
「ただ、苛めたいから苛めている」
という感覚ではなくなってしまう。
つまり、苛めの効力は、傍観者にあって、苛めっ子は完全に傀儡になってしまう。操り人形としての自分を苛めっ子はどう考えるのか、操られながら、実際に手を下していることで、変なストレスが溜まってくる。
――本当は辞めたいのに、辞められないなんて――
という思い、これは誰にも分からないだろう。
下手をすれば、いじめられっ子よりも辛いことだ。いじめられっ子であれば、苛められているという実害があるので、辛いということは皆が分かってくれることだが、苛めっ子がまさか悩んでいるなど思ってもいないだろう、
「苛めの問題は傍観者にある」
と言われているが、それは、もっと浅い意味なのだろうが、苛めの本質を、苛めっ子側から見ると、そのジレンマを感じることができるのかもしれない。
「苛めっ子もまた、被害者だ」
ということになれば、負の連鎖が引き起こされ、苛めというものが、半永久的に残っていくのも分かるというものである。
山内少年は、いじめられっ子の立場であったが、小学四年生の頃になると、苛めっ子の悲哀もなぜか分かるようになっていた。
だが、自分が苛められているのに間違いはないので、同情もできない。それがジレンマとなって心の奥に入り込んだ。
そのジレンマは苛めがなくなっても、実は残っていた。心の奥に闇を見ていたのかも知れないが、その心の奥の闇に入り込んできたのが、同級生の村山茂だった。
村山少年も学校では目立たない存在だった。だが、彼が苛められているところを想像することはできなかった。なぜなのかというと、彼には人を寄せ付けないオーラがあった。だから彼のまわりには誰もおらず、気配を消しているところがあったので、誰にも迷惑もかけずに、無難な毎日を過ごしていたのだった。
しかも、彼には、自分で意識している以上に、まわりは彼を意識していなかった。目の前にいても、まったく気づかない、石ころのような存在であった。
だから、苛めに対しても余計な感情を持たない。まわりからは、
「何を考えているのか分からない」
と彼を意識できている人にはそう思わせたのだが、彼もそれを普通に受け入れて、
「そうか、僕は何を考えているのか分からないんだ」
と考えた。
「まわりに流されやすい」
という言葉があるが、それとは少し違う。
流されるというよりも、余計にまわりの影響を受けて、それだけに、まわりが意識しない保護色の様相を呈していたのだった。
その思いは、山内少年と似ていた。だが、山内少年は、気配を消すことができないのでいじめられっ子になった。逆に山内少年は、自分で思っているよりも、まわりに影響を与えているのだろう。
それまで人の間をすり抜けるように生きてきた村山少年は、山内少年を初めて意識した。そのせいで、山内少年も、村山少年を意識するようになったのだが、二人は次第に主従関係に変わっていった。
村山少年が主なのだが、最初に主従を感じたのは、山内少年の方だった。自分が従であるのを、いじめられっ子の意識が強いせいか従に対して、違和感がなくなっていったのだった。
村山少年の方も、それまでの自分が石ころのような存在だったことを忘れてしまったかのように、意識は全集中で、山内少年に向かっていた。
それでも、まわりに対しての石ころの様子は変わりなく、その感覚があるので、村山少年の主の感覚はまわりにはなく、山内少年の従だけが皆に印象として残る。それがまわりに気持ち悪さを抱かせて、それが苛めがなくなる一番の原因だったのではないだろうか。
そんな関係だったなど、小学生の自分たちに分かるはずもなく、苛めがなくなると、山内少年は、村山少年の奴隷になってしまったのだ。
苛めと違って、村山少年の自己都合だけで、山内少年を蹂躙することはなかった。ただ、山内少年は、
「自分は、村山君のものだ」
と思っていたので、村山少年の自己都合であろうが何であろうが、関係なかった。
だが、村山少年は、
「自分が主になった以上、自分だけの都合で理不尽な命令はできない」
と思ったのだ。
それをしてしまうと、
「他の連中がしていた苛めと変わらなくなるどころか、苛めを誘発する傍観者の無言の圧力と変わらないのではないか?」
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次