奴隷とプライドの捻じれ
と、老紳士が奥さんを庇うようにして歩くのが印象的だった。
その後ろを、少し離れてはいるが、倒れ掛かった時に、助けることができる範囲で離れているので、知らない人は中途半端な距離に思うかも知れないが、番頭はこのあたりの地形もよく分かっていることから、
――この若夫婦は、老夫婦に気を遣っているんだろうな?
と、つかず離れずの距離を、そう解釈していた。
「何があったんですか?」
と、先ほどの衝撃からはだいぶ顔色が戻っていた番頭であったが、その表情から尋常ではない様子が見て取れることと、こんな早朝から、滝という場所のシチュエーションに、何かしらの演出が施されていることを悟っていた。
もちろん、そこに誰かの作為が含まれているかなどは分かるわけもなく、それだけに、長年生きてきたとはいえ、この状況が凍り付いている雰囲気であることは分かったのだった。
そのうちに、仲居さんが母屋から戻ってくる。
「番頭さん、女将さん、どこを探してもいないんですよ」
と言われ、ビクッとした番頭だったが、
「これだけの時間探してもいないのであれば、どこかに失踪したのかも知れないな」
と番頭が言ったが、それから凍り付いてしまった雰囲気とはいえ、身体が動かないわけではないはずなのに、誰も動こうとはしない。動こうとはしないから、その場が凍り付くのだろうが、そんな禅問答のような状況が続いているのは、誰もが、
「最初に身体を動かして、この場の雰囲気を一変させることは、何かの呪いを受けそうで怖い」
というような思いを、皆大小の差はあるだろうが、感じていたに違いない。
――だるまさんが転んだでもあるましし――
と、新之助は思っていたが、きっとこの中で一番冷静だったのは、新之助だったかも知れない。
それだけ、事の重大さを分かっていないということになるのだろうが、新之助は冷静であることが、この場の緊張感を持続できたのではないかと、番頭は感じていた。
駐在は、この状況を一目見て、仰天しているようだった。警察に入ってから、ずっとこのあたりの駐在業務しかしたことがないという駐在さんだったので、殺人事件はおろか、凶悪な犯罪というと、都会にしか存在せず、自分たちには関係のないというくらいにしか思っていなかったことだろう。
「一体、あれはどういうことなんですか?」
と、駐在はその惨状を見つめるだけで、誰に訊ねたか分からない質問を口にした。
もちろん、誰に向けてもの質問か分からないだけに、誰も答えなかったが、それに気づいた番頭が、
「お客様の一人があそこに」
と言って、指を刺すのがやっとだった。
「第一発見者はどなたなんですか?」
と、少し冷静さを取り戻した巡査が番頭に聞くと、
「それは、ここにおります新之助です。今朝、新之助はいつもの勘の良さで、何やら滝の落ちる音に違和感があると申しまして、見てくるように私どもが命じましたんですが、新之助が行ってみると、あの状態だったようです」
と番頭が答えた。
「新之助君が、ここを出て、皆さんに報告に来るまでにどれくらいの時間がありましたか?」
と駐在が聞いたが、
「五分ちょっとくらいでしょうか? 十分も経っていなかったと思います」
と番頭がいうと、
――じゃあ、新之助君に犯行は無理だ――
と納得したかのように頷いた。
そう駐在は感じたのも無理もないことで、駐在は、元々県警本部の刑事課に勤務を希望していた時期があったが、今の駐在の仕事が好きで、その思いを封印してきた。それだけに、新之助を見ていると、彼のように、無表情ではあるが、勘が鋭く、それでいて、どこかお頭の足りないところがあるその性格を気の毒だというよりも、敬意を表して見ていた。
どこか自分に似ているところがあると思ったのだろう。
県警本部への気持ちを誰にも言わず、
「このまま墓場まで持って行こう」
と考えたのは、彼にとって、当然のことであっただろう。
そんな思いもあって、
「警察署からやってくる刑事に出し抜こうとまでは思わないが、できるだけ情報を引き出しておこう」
という、欲のようなものが巡査にあったのは事実だった。
「それにしても、よく新之助君は滝の音の違いに気づいたものだな」
と巡査は、新之助の勘の鋭さが分かっていながら、聞かずにはいられなかった。
それに対して、新之助は黙って俯いていたが、耳が赤みを帯びているのを感じると、
――どうも、まんざらでもないと思っているんだろうな――
と、巡査には感じられた。
だが、この質問の回答を新之助がすることはなく、返事をしたのは番頭だった。
「この子は、昔から勘が鋭いところがありますからね。それは駐在さんもご存じじゃないですか」
と逆に番頭の方から言われたくらいだった。
「ええ、それは私も分かっていますが、あれだけのすごい音で、しかも皆さん毎日聞かれている音なので、感覚がマヒしているのではないかと思ったものだからかですね。これはどうも私の偏見だったようで、申し訳ありません」
と、駐在は恐縮がっていた。
だが、駐在の意見も無理もないことであり、ずっと同じ轟音を毎日のように、四六時中聞いていれば感覚もマヒしてくるというもの。その場にいた誰もが、そのことには納得していたことだろう。
「新之助には、よほど違った音に聞こえたのね?」
と仲居さんがそういうと、新之助青年は、何度も頭を下げて、
「その通りだ」
という意思表示をしていた。
駐在は、一度そのまわりを見渡した。滝の殺害現場である水が流れ落ちる場所までは結構距離があるので、そこは警察署からやってきた鑑識さんに任せるとして、そこに行くまでの道に何かないかを確認しようとして、粘土質でドロドロになっている足元を入念に調べてみた。
すると、
「これは何だろう?」
と、駐在が見つけることができたのは、一瞬キラッと光ったからだった。
それまで誰も気付かなかったのは。光の加減で分からなかったからに違いないのだが、それと同時に粘土質の道自体がキラキラ光っているというところにもあったのかも知れない。
他の人たちの目も、駐在の視線と一緒になってそこを見つめた。駐在はハンカチを取り出して、指紋がつかないようにそれを拾うと、目の前に翳すようにして、裏に表にそれを見つめていた。
「何か、ブローチのようですね」
と言って、拾い上げた。
「これは誰のものか分かりますか?」
と訊ねると、すぐには誰も返事をしなかった。
所持者がウソをついているのか。それともこの中に本当の所持者はいないのか、駐在には分からなかった。だが、あたりを見渡して、それまでなぜこのことに気づかなかったのか、あまりにも肝心なことを見逃したことを、
「どうかしていた」
と思って、自分を苛めた。
「ところで女将さんは、どうされたんですか?」
と、誰に聞くでもなく呟いたが、皆、番頭の方を見ていた。
「それが、女将さんの姿も見えないんです」
と、番頭がいうと、最初にこの現場の異様な雰囲気を見た時よりも、それ以上の違和感が駐在に訪れた。
――女将さんがいない? どういうことなんだ?
と駐在は考えた。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次