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奴隷とプライドの捻じれ

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「番頭さん、今日は何か滝の音がちょっと違うような気がするんですが」
 と、早朝の館内の掃除を一通り終えて、食事の用意をしていた仲居さんや、番頭さんに向かってそう言って声を掛けた。
 普通なら、
「そんなの気のせいよ」
 と、言われて耳を澄ました二人にはその違いが分かるはずもない状態で、うて合わないのだろうが、二人とも新之助のそう言った才能を分かっているだけに、
「新之助がそういうのであれば、見ておいで」
 と言って、送り出した。
 二人は、今まで新之助の耳の良さというのか、ちょっとした違和感も見逃さない勘の良さに、今までどれほど助けられたか、建物の違和感を台風が通過する前であったり、大雪に見舞われる時であったりなどの緊急時に気付いて修復することで、建物崩壊に繋がっていた危機を乗り越えることができたのだ。
 そんなことが何度も続くと、もはや誰も新之助の助言を無視することはできなくなった。だから、新之助がそういうのであれば、と言って送り出したのだが、普通は送り出しても、何事もないものだと思うのだろうが、その時、番頭だけは嫌な予感というか、変な胸騒ぎに見舞われていた。
 新之助を送り出してから、五分くらい、緊張感を持ったまま朝食の準備に勤しんでいた仲居と番頭だったが、バタバタと急いで宿に駆け寄ってくる音を聞いた時、何かが起こったことを直感したのだろう。
 二人は朝食の準備を途中でやめ、急いで玄関に赴こうと立ち上がると、すでに新之助が戻ってきていて、その顔は何ともいえない歪みが浮かんでいた。
 これが、普通の人であれば、怯えとも困惑とも取れないような表情だと分かるのだろうが、普段から表情をほとんど変えない新之助であるだけに、表情からはその心境を計り知ることはできなかった。
 それでも、尋常ではないことは分かり切っている事実だと感じた番頭が、
「これ、どうしんんだ? 何かあったのか?」
 と恐る恐る聞くと、新之助は我に返ったのか、その表情にはやっと怯えのようなものが感じられた。
「滝で、誰かが横たわっているんだ。急いで警察を」
 というではないか。
「誰かが横たわっているって、死んでいるのか?」
「はい、手首の脈と瞳孔の開き具合いを見ましたが、死んでいるのは間違いないようです。とにかく、警察に急いで連絡して、一度現場をご確認ください」
 と言って、さっそく番頭が警察に連絡し、三人は滝に行ってみることにした。
 新之助はこれを殺人事件だというが、この温泉宿の長い歴史の中で、少なくとも番頭と仲居が出くわした事件の中で最悪の事件であることは間違いないようだった。

               女将さんの行方

 鬼門の滝に到着した三人は、滝に打たれるかのように横たわっている死体を目の当たりにした。まるで一本の棒が、滝に打たれたその下で、流れて行こうとするところをロープのようなもので縛られて、滝の勢いを感じて少し流れたかと思うと、強く張ったロープの反動で一気に引き戻される。そして、また滝の勢いを受けて……。
 とばかりに、半永久的に同じことを繰り返しているのだった。
 滝のほとりからは、実際に死体があるあたりくらいまでは、約十メートルくらい離れているので、死体がどのようになっているのか、ハッキリと見えるわけではない。かろうじて、ロープによって流し出されるのを防いでいるということが分かるくらいで、その身元が誰なのか、そこからは分からなかった。
 着ているものは、この宿備え付けの浴衣に、薄い茶色かかった半纏のようなどてらというべきかの上着であった。そして顔は向こうを向いていることで、その被害者が男なのか女なのかもハッキリとは分からなかったのである。
「一体誰なのかい?」
 と仲居さんに聞かれた新之助は、
「あれは、佐山先生です」
 とボソッと言った。
「小説家の常連である。佐山連山先生」
 それを聞いた時、二人は何とも言えない寒気を背中に感じ、ゾクッとしてしまっていたのだった。
 その時になって、よほど三人が慌てていたのかということを示すのに、
「誰か女将さんに知らせましたか?」
 と番頭に言われるまで、皆頭の中に女将の存在を忘れているほどだった。
 普段であれば、何か問題が持ち上がった時は真っ先に女将に知らせるということが徹底されていたが、これは旅館の外でのことだという意識を持っていたのは番頭だけで、その番頭も、、
――どうして知らせなかったんだ――
 と自分の役目を忘れてしまっていたことを悔やんだほどであった。
「私、ちょっと知らせてきます」
 と言って仲居さんが宿の方に戻っていった、
 先日、通称:柏木夫妻を部屋に案内した時の面影はまったくなく、少しでも感情を込めた表情をすると、顔の筋肉が痙攣でも起こすのではないかと思っているからなのか、表情を変えることができなくなっているようだった。
「それにしても」
 と番頭が口を開きかけたが。ハット我に返った番頭は、口にしようとした言葉を飲み込んだ。
 その時、あまりにも一瞬のことだったので、新之助にも分からなかっただろうが、朝のこの身体が冷える時間帯で、朝の仕事を一通りこなして一旦は身体が温まったはずなのに、それがこの状況のために、身体が冷えてしまったこともあってか、精神的に何かがマヒしているのを感じたのだ。
 手持無沙汰だと思ったのか、それとも、番頭さんが見ている前で、何か死体について調べてみようとでも思ったのか、新之助が滝つぼの中に入って行こうとするのを、
「やめなさい。警察が来るまで、現状を保存しておくんだ」
 と番頭に言われ、ピタッと動きを止めた新之助は、神妙にそこに居直るのだった。
 この新之助という青年は、少し足らないところがある。人に気を遣うことには何ら問題もなく。勘の鋭さは誰もが認めるものであるにも関わらず、いきなり訳の分からないことを口にしたり、時々それが奇声となって叫ぶこともあった。
 女将さんが一度病院に連れていったことがあったが、どこか頭に疾患があるらしく、それが原因だと言われたが、治療をするほどのことではないという。
「良性のものなので、放っておくしかない。何かをするとしても、今の医学では治療のしようがないのだ」
 と言われたが、逆に、
「彼の勘が鋭かったりするのは、その疾患の影響もあるだろうから、そちらを生かすようにしてあげれば、それが彼にとって幸福なことだと思うよ」
 と医者は言っていた。
 医者は別に見捨てているわけではなく、その状態でも十分に彼は生かせると考えたのだろうが、さすがに彼を養っている方とすれば、心配になるのは仕方のないことで、なるべく、この宿から他には出さないようにしていた。
 それから、三十分もすると、街から駐在がやってきて、それを聞きつけたのか、旅館の宿泊客も、
「何かおかしい」
 と思ったのだろうか、そろそろと滝の方にやってきた。
 先頭は、常連の初老の夫婦で、その後ろを、通称:柏木夫婦が恐る恐るやってきた。どうしても、滝の水圧の強さからか、年中、このあたりの道は、粘土質のようになっていて、気を付けないと滑って転んでしまいそうなところだったのだ。
「大丈夫かい?」