奴隷とプライドの捻じれ
「B句は自分でまわりに対して、気配を消すことができるような気はしているんだ。村山君と一緒にいる時には気づかなかったんだけど、今の彼女、由香と一緒にいるようになって、自分が人と一緒にいる時、その存在を消せているような気がしたのは、由香が僕と一緒にいる時、僕を後ろに立たせて、僕に後ろから抱き着くように指示するんだ。そして、その時、彼女は僕を鏡の中から、消えるように意識するんだそうだ。いつも僕に自分の腰を抱くようにさせて、彼女は鏡を見つめている。鏡に映っているのは彼女だけなのに、僕のことが腰に絡みついている腕で感じることができる。そんな状況を作ることで、『これがあなたのまわりの人に対して気配を消すことができるという特異体質のなせる業なのよ』というんだ。僕にはよく意味が分からなかったんだけど、その頃から、僕は他人の意識から消えているような気がすることが多くなった。実は前からその素質は持っていて、由香によって、その潜在的な意識を感じることができるように暗示に掛けられたのではないかと思うようになったんだ」
と山内は言った。
「そうなのね。由香さんが今のあなたにとっての主であり、あなたが奴隷として従う相手なのね。私はいつも小説を書きながら、あなたという奴隷にどんな主がふさわしいかを考えてきた。その主というのは、私ではないのよ。私にしてしまうと、小説としては描けなくなる。それが矛盾であって。私にとってのジレンマなのよ。それを感じた時、私は苦しかった。ここまでなのかって限界も感じようとした。でも、一つウラを返せば、違う考えが生まれる。でもそれは私の本意ではない。ここにも矛盾とジレンマがあって、どこを向いても逃げることのできない状況に、私はゾクゾクするものを感じた。それが小説を書く醍醐味であり、最初に書いていた恋愛小説とはかなり違っているはずだったのに、気が付けば一周まわって戻ってきたのよ。それを思うと私は、あなたと一度会ってみないと、一体自分がどこに進もうとしているのかが分からないような気がして。こうやって会いにきたというわけ、そして、今私は真剣あなたの心の闇を取り除いてあげたいと思うようになった。今までは私の小説の中の架空の存在だったあなただったんだけど、今は違う。やっぱりあなたはちゃんとこの世に存在している、生身の人間なのよ」
と麗子は答えた。
鬼門の滝
「あなたが今一緒にいる由香さんという女性はどういう女性なの? いまいち私にはよく分からないんだけど」
と麗子に聞かれた。
「彼女は、僕にとっての『パンドラの匣』だったような気がするだ。決して開けてはいけない箱を開けてしまったことで、お互いに引き合ってしまった。でも、どこかで切らなければいけない仲なのだということは分かっているんだ」
と山内がいうと、
「二人の関係は『パンドラの匣』なの? 開けてはいけない関係なの? 触ってはいけないものに触ったというわけではなく?」
と言われた。
「それはどう違うんだい?」
「開けてはいけないいうものは、誰かに言われたことで、抗いたいという気持ちが強くあったことで逆らった結果に生じた災いであって、触れてはいけないものに触れてしまったのは、単に自分が無知だったことで生じた災いということを象徴して言っている言葉ではないかと思うの。だから、あなたはその由香さんとの出会いは、自分の意志によって道字かれたものであって、偶然ではないと自覚していることではないかと思うの。そう思っているということは、あなたが意識しているのか無意識なのか分からないけど、あなたにとって由香さんは、愛すべき相手だということになるのね。きっとあなたはどんなに奴隷扱いされようとも、彼女を愛し続けようという意思があると私にも思えるの」
と麗子は言ったが、
「僕にはそこまでの意志はないと思っているんだけどな。もし、そこまで考えているのだとすれば、自分の中に覚悟のようなものが潜んでいると思うんだけど、そんなものはどこにも感じられない。もし、覚悟があるとすれば、別の意味の覚悟なんだけどな……」
と、最後は意味深な言い方になった山内だったが、それを聞いた麗子は自分が訝しい気持ちになっていることに気が付いた。
「何をそんなに覚悟にこだわるというの? そのくせ、確固とした覚悟なんかないくせに……」
と、麗子は諫めるようにそう言った。
少し険悪なムードになりかかっていることを、二人は意識していた。最初は相手が何をいうのか分かっていて、それを当然のごとくに感じていたはずなのに、今では相手のいうことが分かっていることが訝しく。苛立ちに繋がっていることに、ムカムカした思いに駆れれるのだった。
「僕が、奴隷として村山に捨てられた時、目の前にいたのが由香だったのかな? って最近は思うんだ。どうして一緒にいるかと訊ねられると、最初のきっかけは忘れてしまったというのか、思い出したくないというのか、そのどちらかなんだろうけど、意外と奴隷という意識さえ持っていれば、何とかなるということなのかも知れないって。思ったほどさ」
と山内は言ったが、それを見て麗子は嫌な気分になっていた。
「あなたが、自分を奴隷として卑下するのは分からなくもない。たぶん、何かのきっかけがあってあなたは奴隷というものを意識して、その地位にいるんだろうけど、今のあなたは、ただ楽をしたいという意識から、奴隷というものに成り下がっているような気がするのよ。かつてあなたが持っていた奴隷というオーラはそんなものではなかった。じゃあ、どんなものだったのかって言われると私にも説明がつかないんだけど、私にとってのあなたという存在だったとしか今の私には言えないの。これも一種の正当性を感じたいがための、いいわけなのかしらね」
と麗子は言った。
「言い訳というのは、少し違う気がするわ。何が自分にとって大切なのか、考えてみる機会があなたを奴隷として生かせる状況だと思うの。それは誰にでもある感情であり、それがあなたにとってはたまたま奴隷だったというだけなんじゃないかって思うのは、違うことなのかしら?」
と麗子は続けた。
自分で言ったことをすぐに打ち消した形だが、それはひょっとすると、自分に何かを言い聞かせるためなのかも知れない。
「僕は今でこそ、奴隷って平気で言えるようになったけど、ついこの間までは、奴隷という言葉が嫌いだったのよ。まさか、自分の中の本質が奴隷だったなんて。思いたくもないからね」
と、山内は言った。
「でも、奴隷って気が楽なんじゃないの? 基本的には相手が面倒見てくれるから」
と麗子は、相手に配慮しないかのように言った。
「そんなことはないさ。最近では、奴隷と主というものを履き違えている輩がいるから厄介なんですよ。それも、主だけが履き違えているだけではなく、奴隷の方迄履き違えているから、二人揃って間違って解釈しているから、問題になる。変なプレイに興じたことで、殺人事件になったりなどというのも増えているらしいんだ」
と山内がいうと、
「まあ、怖い」
と、首を竦めるようにして麗子は言った。
作品名:奴隷とプライドの捻じれ 作家名:森本晃次