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謎を呼ぶエレベーター

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 ただ、これは、自分の中でデリヘルを無意識に否定しているということを叙実に表しているかのようで、それは、まるで近親相姦を否定している思いに似ているのではないかと思うのだった。
 綾子の中でも、近親相姦に対しての違和感はあった。それは近親相姦がタブーだというそのタブーに対しての違和感ではなく、近親相姦を悪とするその風潮に対しての違和感であった。
 綾子の場合は、秋月とは少し違っている。
「私は近親相姦をタブー視することに違和感があるけど、近親相姦をいいことだとも思っていない。その矛盾が、まるで自分を擁護するかのような言い訳のつもりで、近親相姦を利用しているのではないか?」
 と考えていることであった。
 つまりは、
「近親相姦を悪だと考えるのは、世間の勝手な思い込みだ」
 と自分に言い聞かせることで、世間的に、あまりいい印象を与えていないデリヘルという職業を、自分自身で肯定できる理由が欲しいというのが、その原点ではないかと思うのだった。
 確かに、世の中には、
「必要悪」
 というものがある。
 性風俗もその一つであり、実際には風営法という法律で守られてもいるのだ。
 法律を準するように営業をしていれば、誰からも文句を言われる筋合いがないのである。それはどんな商売にも言えることで、他の商売だって、どんなにいい仕事と言われていても、その裏で詐欺などの犯罪が絡んでいれば、立派な悪である。
 それでも、他の商売は。商売に対しての謂れはなく、犯罪そのものを糾弾することになるのだが、それが性風俗が絡んでくると、
「やっぱり、性風俗が絡んでいるんだ」
 であったり、
「やっぱり性風俗というのは、諸悪の根源なんだ」
 などという言いたい放題の言い方をするやつもいたりするだろう。
 だが、そんな連中は決して一人で唱えることはしない。集団意識に訴えるか、今の世の中ネットが主流であるということで、匿名で何でも言えることから、一人であっても、決して自分だとはバレないことで、いくらでも誹謗中傷ができる世の中になってしまったのだ。
 それを考えると。
「何て、卑怯で卑劣な連中が世の中には溢れているんだ」
 と言いたくなっても無理もないだろう。
 皆が皆、そんな連中に見えてきたとしても無理もないことで、そんな世の中で、
「人とのかかわりが大切だ」
 などという甘っちょろいことを宣っているのを聞くと、ヘドが出るほどだ。
 そんな連中は、どこに潜んでいるか分からない。ネットの世界では、同じ人間が、
「一人二役」
 はおろか、一人何役もこなせるというもので、そうなってくると、
「どこに倫理や道徳なんかがあるというんだ」
 と思えて仕方がないだろう。
「人を信じるから裏切られる」
 という言葉を昔のテレビ番組で見たことがあった。
 二時間ドラマだったような気がしたが、犯人が言った言葉であり、犯人ではありながら、気の毒な人生だったということを言いたかったのだろうが、今ではそんな人間が、世の中に溢れていることだろう。
「石を投げれば、該当者に当たる」
 という言葉があるが、まさにそれくらいのことであるだろう。

                鬼畜感情

 耽美主義というものは、何においても「美」が優先するというものである。小説、絵画、その他の芸術において、耽美主義を避けて通ることはできないであろう。
 十数年くらい前に、戦前の探偵小説作家の、「端部主義」的な場面を大げさに映像化したものがあったが、実際に小説を読んでみると、そこまでの耽美さは見えてこない。確かに、殺害の動機などで、
「美の追求」
 のためか、彫刻であったり、絵画や、あるいは氷の彫刻などというシチュエーションで美を強調しているものもあるが、それはあくまでもストーリー展開における一種の「演出」にすぎないものであった。
 猟奇的な殺人を耽美主義への追求から、殺人の動機として取り上げることは、一種の言い訳にしか過ぎないはずなのに、耽美主義をあまりにも表に出しすぎると、犯罪自体を美化してしまい、何が悪いことなのかということに目を瞑った作品になりかねない。
 それを本当に作家の先生が考えていたことなのかを考えあわせれば、耽美主義を前面に押し出した演出は、映像効果としてはいいのかも知れないが、マナーにそぐわないのではないだろうか。
 確かに耽美主義は道徳観よりも美という芸術が優先するというものなので、そうなると、支離滅裂な感じになってくる。
 少なくとも、耽美主義の本質を理解して小説に生かそうと思っている綾子には、過去のテレビドラマとして製作した作品を、ただの映像作品としては、問題ないかも知れないが、少なくとも芸術という意味合いで作品を表に出すのであれば、否定せざる負えないと思うのだった。
 綾子が目指している小説は、探偵小説を描くことだったが、そのためには他の大衆作品も読んでみたいということで、いくつかの小説も読んでみた。
 だが、何か物足りなさがあったのだが、その理由が分からない。そこで、これまで、
「道徳的見地の作品はあまり好きではない」
 という理由から避けてきた、純文学というものに触れてみることにした。
 大衆文学と違って、純文学というジャンルには、いろいろな制約があり、自由な発想が育つ環境ではないという見地から、純文学に触れなかったのを後悔していた。
「道徳的なことで、まるで某国営放送のような厳しい制約があり、放送禁止用語がそのまま文章としては使ってはいけないものだ」
 という勝手な思い込みを負わされていたようだ。
「一体何が勘違いさせたのだろう?」
 純文学の『淳』という言葉がまずいのであろう。
 性的描写であったり、放送禁止用語に絡むようなことはすべてご法度であるかのような錯覚が、綾子にはあった。
(ちなみに綾子はその時知らなかったが、秋月も同じ勘違いをしていたのだが、それはまだここでいうことではなかった)
 だが、実際に純文学作家と呼ばれる作家の本を読んでみると、自虐的な作品もあったり、性的描写も巧みに描かれていたり、それこそ、「耽美主義」的な作品も数多く存在していることで、純文学の定義を調べてみたのだ。
「純文学とは、娯楽性の強い大衆文学との比較のための小説分野で、娯楽性よりも芸術性のある小説を総称する」
 というようなことが書かれていた。
 確かに黎明期の純文学というのは、自然主義が基本であったが、そのうちに社会派の出現、さらに反自然主義と呼ばれる作品や、耽美系のものまでもが純文学として入り込んでくる。さらに筋の面白さと小説の芸術的価値を関係ないと見るか、あるいは、筋の面白さこそが、小説という形式の特権という考え方が生まれてくる。そから、純文学というものが確立されていくわけだが、戦後になっても耽美系であったり、不条理主義などという形式も純文学に入り込んでくる。
 綾子が考えたこととしては、
「要するに文学というのは人間物語であり、そこに芸術的な側面が見られれば、それが純文学である」
 と考えるようになった。
 それまでの大衆文学と純文学との違いを思い図っていくと、結局は、その区別が曖昧であるということに行き着いてしまう。
 そこには、
作品名:謎を呼ぶエレベーター 作家名:森本晃次