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謎を呼ぶエレベーター

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 いくら、彼女の幼馴染が、今度の事件で被害にあった女性の旦那の不倫相手だったとしても、そこまで彼女が深入りする必要もないだろう。
 その幼馴染にしても、ずっと仲が良かったわけでもないわけだし、いくら最近少し気になっているからと言って、そこまで構う気持ちにどうしてなれるのか、秋月には不思議だった。
 だが、不倫相手の片桐澄子という女性とのことは、すべてが綾子の口から出たものであって、どこまで彼女の話に信憑性があるのか分かったものではない。今は今までになかったような波乱が自分のまわりで巻き起こっているので、興奮状態にあるから、ほとんどのことに信憑性を感じてしまうのであろうが、元々自分のまわりに起こることに対して、信憑性を感じないようになっていた秋月にとって、目まぐるしいの一言に凝縮されそうな気がして、不思議なのであった。
 片桐澄子という女性を、秋月は知らない。
――ひょっとしたら、どこかで見たことがあったかも知れないが、知らないな――
 という程度である。
 何と言っても、実兄の不倫相手である。
 自分が好きな女性を裏切って、不倫をしていた。相手がどうであれ、兄の行動派許容の範囲を超えている。
 しかも、自分が好きだった相手を奪っておいての、さらなるその女性に満足できずの不倫ということを考えると、どれほど性欲なのか、征服欲なのかが強いということなのだろう。そんなもののために、自分の精神が犯されてしまうかも知れないと思うと、男女関係というもののドロドロさが滅する気持ちを誘発しているかのようだった。
「耽美主義」
 という言葉があるが、秋月はこの言葉が嫌いではなかった。
「道徳的な発想を二の次に置き、美というものをいかに追求するか?」
 という発想から来ているもので、
「美しければ、たとえそれが犯罪であっても、美というものに優先されるものではない」
 と言えるのだろうが、それはあくまでも芸術にのみ、ありえることだと思っていた。
 人間の精神に対して、そんな「耽美主義」を許してしまうと、秩序は失われ、無法地帯だけがそこに存在する形になってしまう。
 何も道徳的なことだけを肯定し、非道徳的なことをすべて否定しようというわけではないが、やはりある程度のものは容認されるべきではないかと思っていた。
 あまり性的な発想に詳しいわけではないが、ここでいう道徳的な発想というものの中で言われていることの中に、どうしても、疑問を感じることがあった。
 それは、
「近親相姦」
 という発想であった。
 昔から、非道であったり、
「鬼畜にも劣る」
 などと言われ、小説世界では時々題材にされて、そのすべてを否定され、さらには、殺人の動機として扱われていることがある。
 秋月も、子供の頃から、
「近親相姦というのは、口にするのもおぞましいくらいの鬼畜にも劣る行為である」
 と思っていた。
 だが、今考えてみると、
「なぜ、近親相姦がいけないのか?」
 という本当の理由が分かっていないような気がする。
 確かに昔から言われていることとして、
「近親相姦を犯してしまい、子供が生まれてくると、その子は指の数が足りなかったりという畸形の形で生まれてきたり、生まれつき身体が弱く、生まれながらに致命的な欠陥を持ったまま生まれてきたりするものだ」
 と訊かされていた。
 今でも、半分は、
「そうなのかも知れない」
 と思っていたが、果たしてどこまでが本当のことなのだろうか?
 近親相姦に対してのタブーのことを、
「インセスト・7タブー」
 という名称で呼んでいるらしいのだが、どうして、近親相姦が悪いことなのかという原因については、一致した見解が見られないという。
 そもそも、問題として、
「どこからどこまでが近親相姦なのか?」
 という定義も曖昧である。
 具体的には、
「何親等までは近親者に当たるのかということも曖昧で、その親等と言われる定義に、どこまで『血の濃さ』というものが反映されているかというのも、定かではないだろう」
 と言われてもいる。
 さらに、どこまでの行為がタブーとされるのかも問題で、もっとも、この話になると、不倫や浮気も似たような発想になりがちだが、
「性行為に及んだら近親相姦なのか? それとも性行為に及んで、そこで子供ができてしまうと、近親相姦としてのタブーなのか?」
 というところも曖昧である。
 不倫や浮気も、その人それぞれで、
「どこまでが許せるか?」
 という論議は結構いろいろ言われている。
「キスまでは大丈夫だ」
 などという発想もあれば、
「一緒に食事をした時点でアウトだ」
 という発想もあったりする。
 だから、そこまでが問題なのかを考えると、そこまで判断すればいいのか、一体それは誰が決めるのかということにまで言及するだろう。そうなると、堂々巡りは繰り返してはいないが、袋小路に嵌り込んだと言える状況になってくることを感じるのだった。
 そう考えると、
「一体誰がいつ、どこで近親相姦を『悪』と考えるようになったのだろうか?」
 これは太古の昔、聖書であっても、言われていることであり、多々ある宗教でも共通して近親相姦を戒めている。
 それを思うと、その底は深いようだ。
 だが、その深さに騙されてはいないだろうか。
 そもそも日本の歴史のみならず、世界史の鯉から脈々と繋がれる王家であったり、主君の家系は、近親相姦によるものが結構あるではないか。日本においても同じである。その時は、
「家畜にも劣る非道な行為」
 と言われなかったのだろうか?
 それを考えると、過去から脈々と受け継がれながら続く、タブーというものは、
「タブーと分かっていても、それを肯定することが世間としての正しい姿だとその時は思っていたのだとすれば、近親相姦というのも、
「ひょっとすれば、わざと行われてきたことだったのではないか?:
 とも考えられた。
 そうなると、逆に、近親相姦を悪としてみなす考え方も、何か作為的なものが感じられる。
 耽美主義というのも、それらの発想から生まれてきたのだとすれば、
「インセプト・タブーというものが、耽美主義を生んだ」
 という考え方は、至極当たり前のことであり、
「耽美主義という発想は、生まれるべくして生まれてきたものではないだろうか?」
 と考えられるのであった。
 小説などの芸術の世界でよく言われる「耽美主義」という考え方、そこには芸術を超える何かが潜んでいると考えていいのかも知れない。
 その火付け役の考え方として近親相姦を引き合いに出したが。それはあくまでもたとえとしてである。肯定しているわけではないということは、読者諸君に弁解しておこう。
 綾子が描いている小説は、計らずとも、ミステリーの中でも「耽美主義に」に近いものであった。
 自分の中では、
「デリヘル嬢をやっていると、どこか耽美的な気持ちになっていくんだわ」
 という思いがあった、
 どちらかというと、思い込みに近いのかも知れないが、
「自分の中で耽美を追求することは、デリヘルという仕事をしている自分を肯定するものだ」
 ということに繋がっていた。
作品名:謎を呼ぶエレベーター 作家名:森本晃次