謎を呼ぶエレベーター
だが、それをまるで人間が生きていくための背負っている糧のようなものだとすれば、それが足枷や手枷となって、自分が誰かに拘束されているという思いに駆られてしまう。
綾子は、足枷や手枷が自分にくっついている感覚を感じたことがあった。
あれは、大学の頃小説を書くのに、何かネタをと探していた時、オカルトサークルの部員が持っていたSMグッズを見せてもらったことがあり、手枷足枷をつけてみたものだった。
思ったよりも重たかった。じゃりじゃりという音が耳に響く。人を拘束するための道具として今まで感じていたくせに、実際には違うもののように感じていた。
拘束することに変わりはないのだが。あくまでも、自分に対して服従させるという意味合いが強い気がした。意外と手枷足枷をつけている人間は、もし、それが取れて少しでも自由の身になれたとしても、すぐにはその場から立ち去ることはできないだろう。
それだけ手枷足枷の効力は強いのだ。
自分を拘束しているという意識が強いことで、自分が逃げれば、他の人が見せしめに殺されるということが分かっていたからだ。それが奴隷の精神なのかも知れない。しょせん気持ちの中では、
「何をやっても、自分はこの現実から逃れることなどできない」
というものがあるからだろう。
どうしても、委縮してしまって、身体が動かない。それが身に就いた奴隷精神ではないだろうか。今まではそんな精神の欠片もなかったのに、一度身体に手枷足枷が身についてしまうと、逃げることなどできなくなる。
逃げようという意識がなく、拘束されていたことが却って気が楽だったと思うはずである。
「一体、逃げるってどういうことなんだろう?」
綾子は友達の少ない女の子だった。だから、綾子がデリヘル嬢をしているなどということを知っている人はほとんどいない。知り合いの中にそのことを明かすような人はおらず、今は彼氏もいなかった。
それでも、
「寂しい」
という思いはなかった、
生きるということに感覚がマヒしているところがあったからだ。
「一生懸命に生きているだけで十分、目の前のことをこなすだけで精いっぱい。余計なことなど考えている暇はない」
と思っていた。
そもそも、余計なことやネガティブなことを考え始めると、底なしだった綾子は、
――私は、考えがまとまらず、絶えず何かを考えてしまう時って、堂々巡りを繰り返しているのであって、決して袋小路に迷い込んだわけではない――
と思っていた。
袋小路に迷い込むことと、堂々巡りは違うものだと思っているのだった。
堂々巡りを繰り返すというのは、まったく同じ場所を行ったり来たりしているということであり、袋小路に迷い込んだというのは、
「迷い込んだ」
という言葉が示す通り、迷路に入り込んでしまっただけで、同じ場所に戻ってくる可能性が限りなく高いだけのことだ、
しかし、結論として、袋小路に迷い込むんだと理解するには、同じ場所に戻ってこなければ、かなり難しいのではないかと思うことから、袋小路に迷い込むということは、もう一度同じ場所に戻ってくること、つまり堂々巡りと同じことになるのではないかとも思うのだった。
堂々巡りというのは、やはり、
「巡り」
という言葉が示す通り、もう一度同じ場所に戻ってくることを必須としているので、袋小路のような迷路ではないが、ごく狭い範囲で元の場所に戻ってくることを、
「堂々巡り」
という表現でいうのではないかと思うのだった。
そんな綾子の気持ちを知ってか知らずか、分け隔てなく、子供の頃から接してくれたのが、澄子だったのだ。
澄子は人を変に差別するようなことはしない。差別をしない代わりに、人に気を遣うこともない。最初に澄子に対して感じた思いが自分にとっての救世主のように思えた綾子は、澄子に対して従順であった。
ここからの澄子はその気持ちを間髪入れずに察したのだろう。それも彼女の特徴であり、そう思うと、綾子は自分にとっての傀儡のように思えた。
「私の考えていることを忠実に達成してくれるしもべのような存在」
それが、綾子だったのだ。
周りからは見えにくい主従関係で結ばれた綾子と澄子、お互いに最初の頃は、この関係を、
「当たり前の関係」
と思い、まったく不思議に感じることはなかった。
澄子の方は今まで結局一度も綾子に対して、
「自分が主である」
という意識を変えたことはなかった、
だが、綾子の方は、少しでも距離が空いてしまうと、綾子を見た時に、それまでの自分の残像が残っているのが見えるのだ。
「今の自分と綾子は、距離が離れたんだ」
と、残像を見ることで改めて感じるという鈍感な面があるにも関わらず、
「ひょっとすると、皆も自分と同じような主従関係の人が一人はいて、その主従関係を離れた時に残像として見ることができないから、その主従関係の存在について、理解することができないのだろう」
と、自分が主従関係の従であるということを認めたく無い理由なのだろうと思うのだった。
澄子という女の呪縛は、子供の頃の黒歴史であって、連絡先のアドレスが変わっていたことを感じた時、ホッとした気分になった自分を、今ではいじらしいと思うくらいだった。何といっても、一番出会いたくないと思った相手だったにも関わらず、二年前に出会ってしまった時、
「少しでも変わってくれていればな」
という淡い期待を抱いたのだが、そんなものは、希望的観測に過ぎなかったというだけのことであった。
今から思えば、
「澄子という女は、どんなことでも平気でできる女だったのではないだろうか?」
という思いがあった。
子供の頃は、綾子という従者がいたことで、自分が何か悪そうなことをしても、それは綾子に責任を押し付ければいいとくらいにまで思っていた。
もちろん、謂れのない責任を相手に負わせるなど、そう簡単にできるわけもないが、それだけの悪知恵を、澄子は持っていたような気がした。
だから、綾子は、
「ヘビに睨まれたかカエル」
のように金縛りに遭ったかのように感じると、まったくもって、澄子の考えに従わないわけにはいかないのだ。
そんな主従関係を看破する人はまわりには誰もいない。綾子の行動や言動を、
「何か不自然だ」
とは思っても、その背後に澄子がいることを知らない人たちが、皆何かがおかしいと思いながらも、そこに違和感の発展はなかったのだ。
大人になると、さすがに、二人の関係を、
「どこかおかしい」
と感じる人も出てきたようだ。
大人というものが、子供の頃に気付かなかったことでも気づかせてくれるという意味で、成長したものだとすれば、この違和感を感じてくれることへの正当性のように感じるのだが、そこまでは綾子はハッキリと実感できたわけではない。
実感ができないということは、理解していないのと同じであり、頭では理屈としては解釈できても、感覚が受け入れられていなければ、それを本当の実感だとは思えないのではないだろうか。
今年になると、いよいよそんな綾子が、
「私は覚醒したのかもしれない」
と感じたことがあった。
それは、澄子から自分が脱却できるような気がしたからだった。
作品名:謎を呼ぶエレベーター 作家名:森本晃次