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短編集123(過去作品)

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 転勤を命じられたのだ。しかも転勤先が東京、普通なら栄転になるはずなので、他の人ならまわりの細かいことを片付けて家族で引っ越すか、それとも単身赴任をするかのどちらかになるだろう。
 だが、彼の嫁はどちらも拒んだ。しかも頑なに拒んだのだ。
 理由らしいものはいくつか挙げていたが、ここまで頑なな拒否の理由にはならないだろう。
 単身赴任に関しては、二重生活できるほどの収入があるわけではない。しかも物価の高い東京である。いくら給料で東京手当てがつくとは言え、それだけで賄えるほどではない。しかもまず自炊をするタイプではない坂上である。外食ばかりになるのは目に見えている。
「やっていけるわけないでしょう」
 いつもは冷静に諭すように話す嫁が、その時はヒステリックになっていた。さらに、
「あなたに自炊なんてできるはずないのよ。私がいないと何もできないじゃない」
 と吐き捨てた。
 さすがに聞き捨てならない言葉であったが、逆らうことはできなかった。その通りだからである。ここで下手に喧嘩になって離婚などということになれば、将来設計が根本から狂ってくる。やはり、嫁あっての将来設計だからである。
 なぜ嫁が東京の生活を頑なに拒むか、最初は分からなかった。だが、彼女の親友が高校を中退して、まわりの反対を押し切って上京したが、半年もしないうちにボロボロになって帰ってきたのだ。どうやら夢を持って入ったプロダクションに騙されたらしく、借金を抱えることになり、最後には風俗に身を寄せる羽目になったという。親が気付いて連れ戻したから何とか、その後田舎で生活ができているらしい。ただ、後遺症はひどいもので、いまだに都会への恐怖心は抜けていないという。
 最初、嫁はその話を坂上にはしなかった。嫁は性格的にも頑ななところがあり、自分で思い込んだことは何があっても言わない性格であった。
「どうして最初にそれを言わないんだよ」
「だって、これは私と彼女の問題でしょう。彼女のプライバシーでもあるの。いくら夫であっても話せないこともあるわ」
 と言ったきり、その話題について口を開くことはなかった。
 坂上もさすがにその話を聞いた時、嫁の辛さも分かったような気がした。いや、自分の中にそれまでなかった大都会東京というところへの恐怖心が生まれてきた。
 それまでは憧れがほとんどを占めていた。刑事ドラマなどで東京の裏事情も見てきたが、所詮ドラマで描かれていることで、自分には関係のないことだと思っていた。リアルさに欠けたのだ。
 だが、それは自分が目を逸らしてただけだったことに気付いた。
 嫁さんにとって、自分が感じたことを夫が本当に感じてくれるはずはないと思っていた。いくら夫婦とはいえ他人である。しかも、親友を夫である坂上は知らない。どのような環境でどのように育ってきたかなど、知る由もないからだ。
「私は負け犬じゃないって、彼女、そう言っていたわ」
 と嫁が搾り出すように話した。それが彼女の話題の最後だった。
 坂上や嫁が負け犬になるとは限らない。闘争心があるならば、挑戦するべきなのだろうが、海千山千の都会の人々に掛かったら、中途半端な都会に住んでいる人間はひとたまりもないだろう。本当の田舎者よりも絶対的な人数は多いのである。東京ほどたくさんの種類の人間がいるわけではない。土地柄に性格も滲み出るだろうから、攻略法もそれなりに知れ渡っているに違いない。
「転勤のお話、なかったことにできないでしょうか?」
 転勤を断われば、即辞表提出が一般論だろう。それでも恥を忍んで辞表の言葉は口に出さなかった。
「そうか、それは残念だ。坂上君なら、これからどうすべきか分かるだろうね?」
 そう言って、人事部長に肩を叩かれた。いわゆる辞職勧告である。
「分かりました」
 翌日さっそく辞表を提出する。送別会が催されたのは、それから一週間後だった。実に段取りがいい。きっと、転勤の話をもらった時に、
「考えさせてください」
 と言ったことで、こういう事態をかなりの確率で予想していたのだろう。
 さすがにここまでくれば、退社を考えざる終えない。家では、やはり覚悟していたようで、
「しょうがないわね」
 思ったよりも冷めていた。
「お前のためにこっちは犠牲になったんだぞ」
 という言葉が喉から出掛かっていたが、自分も東京は嫌だったし、次の就職も安易に決まるだろうと思っていたから、口から何も出てくることはなかった。
 就職活動は思ったよりも難しく、何よりも職がないのだ。アルバイトやパートに切り替わってくる時期で、正社員ともなれば、なかなか難しかった。
 しかも経験者でなければ就くことのできない仕事ばかりが目立ち、
「初心者でも一から教えます」
 の文字が躍っていても、実際に斡旋の窓口に行くと、
「経験がないのは、ハッキリ言って難しいですよ」
 と言われてしまった。入っても続かないのは目に見えている。精神論だけで仕事ができないことは今までしていた仕事で経験済みである。
 半年ほど次の就職までに掛かってしまい、想像以上に長く感じられた。決まってしまえば、気分も晴れやか、次の職場へと気持ちは向かった。
 仕事に関してはそれほど難しくもなく、思ったよりも無事にこなせそうだった。しかし、就職した会社は前の会社よりも規模は小さく、閉鎖的なところがあるわりには、細かいところが結構あった。それまでの大企業でやってきた自分のプライドを一度どこかで崩さないと、先に進めない状態でもあった。
 慣れてくると、自分の意見が通ることに今度はやりがいを感じてきた。地元密着であることも、やりがいの中に含まれてくる。三年目くらいからは、自分のやりたいようにできる環境を作っていったのが、うまく行っている秘訣かも知れない。
 仕事がうまく行き始めると、今度はプライベートがギクシャクしてくる。それまで会話が絶えなかった夫婦で、どこかギクシャクし始めた。再就職の時に少し感じた違和感が、よみがえってきたかのようである。
 夫婦の会話がまったくなくなった。元々物静かで、坂上にだけは打ち解けていたのに、その坂上に対してもまったく話さなくなった。
 最初は、それほど重大なことだと思っていなかった坂上もさすがに途中から、
「これはやばい」
 と思うようになった。夫婦に会話がないということは、お互いに気を遣っているのか、それとも夫婦にしか分からない相手の欠点を見てしまって、見てしまった以上、話すらできなくなってしまったかのどちらかではないだろうか。
 坂上は最初前者だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 坂上には再就職の際の「貸し」があった。男としては、昔の話を持ち出して根に持っているような気持ちを表に表したくはないのだが、相手が訳もなく話をしないのであれば、こちらにも意地がある。
 意固地になってしまうと、売り言葉に買い言葉にもあるようにお互いが納得いく結論を見出せないかも知れない。
「その時はその時だ」
 これが坂上の考えだった。もし妥協してうまく行ったとしても、また後々遺恨を残してしまうのは必然だからだ。
作品名:短編集123(過去作品) 作家名:森本晃次