催眠副作用
「人間は、本当に面白いですよね、基本的にはポジティブなことを口にしていると、アドレナリンが放出されたりして、いい方向に進むというけど、ネガティブなことをいうことも悪いわけではないという発想は新鮮な気がしますね。さっきの言っていたように、ネガティブなことが重なると、どんどん悪い方に堂々巡りを繰り返す。それはなぜかと考えると『鬱状態への入り口なのではないか?』と感じたんですよ」
と、先輩がいった。
「なるほど、鬱状態ですね。私も受験生の時には鬱状態に陥ったんですが、躁状態とが交互に襲ってきたので、躁鬱症だったのではないかと思っています」
とつかさは言った。
「躁鬱症というのは、基本的に躁状態を先天的に持っていなければ陥らないと思うんですよね。鬱状態というのは結構陥る人はいますよね。環境だけで陥る人は陥ります。でも躁状態というのは、環境だけでは決して入ることはないと思うんですよ。だって、躁状態というのは、鬱状態と逆で鬱に陥りそうな時であっても、いい方にしか考えられないんですよね。これってすごいことですよ。よほど、自分を客観的に見ることができないと入ることはないと思います」
と先輩は言った。
「私は躁状態に入ったことはないんだけど、躁状態の人は入ったことのない人間から見れば、怖く感じるですよ。鬱状態よりも、よほど病的に思える。特にまわりは、躁状態を能天気と呼んだり、あまり深く考えていないというけど、それだけではなれないと思うんですよ。きっと病気のように何かの原因か、菌のようなものがあるじゃないかと思うと、それが恐怖に繋がるんです」
と、弥生は言った。
自分が、
「躁鬱だ」
とカミングアウトしたにも関わらず、それを聞いたうえで今のセリフを口にするのは、つかさから考えれば、ひどいことのように思えたが、弥生には弥生の考えがあるので、何とも言えないが、かなりの毒舌なのだろうと思えた。
ただ、話に説得力はあり、一言で気持ちをぶち抜かれる気がするから、説得力を感じるのだろう。
ダラダラと理屈をこねられると、説得力を感じない。秒殺で射抜かれると、目が覚めたような気になるのだろう。ひょっとすると、カタルシス効果も、似たような効力を持っているのではないかと思うのだった。
カタルシス効果は、ストレス解消お意味が強いのだろうが、果たしてそれだけだろうか? 負のスパイラルが堂々巡りを繰り返すという感覚が果たしてカタルシス効果を考えた人に分かっていたのだろうか。考えた人は。確かフロイトだったと思う。フロイトは精神分析や精神科の部門での世界的なパイオニアだということは知っているが、なかなか精神分析関係の話は難しいので、どうしても避けてしまっていた。
だが、本当に避けて通れるものなのだろうかと思ったのは、弥生と知りあったからではないだろうか。弥生もひょっとすると、つかさと知り合ったことで、それまでの自分の中でだけ済ませようとしていた感覚が広がるかも知れないと思うようになったのかも知れない。
鬱病の人は、いろいろ社会的にも過去から問題にはなるが、躁状態の人のことを問題視することはあまりない。
天真爛漫であったり、楽天的だという表現をすることはあっても、むしろいい意味で使われることが多い。鬱状態と一緒の時で、躁鬱症と言われると、一気に悪いことのように考えられるが、それも重点は鬱状態に置かれていて、躁状態はそれほど悪いことのように言われない。
むしろ、楽天的すぎると、考えが甘くなってしまうということで、性格的なことよりも具体的な考え方の方に目が行ってしまうので、躁状態そのものを問題にすることはあまりないと言ってもいいだろう。
だが、最近のつかさは、躁状態の時の方が怖い時がある。それは、
「暗示にかかりやすいのではないか?」
という考えである。
例えば、宗教団体などの組織において、催眠術や、マインドコントロールなどで、人心を操ろうと考える人は、まず人間を、
「いかにすれば、集団催眠に掛けやすい状態になるだろう?」
と考えた時、
「何事もいい方にしか考えず、深く考えない人が集団催眠に掛かりやすい」
と思っている。
集団催眠というのは、一つの集団を、皆同じ方向に向かせるために行うのが、宗教団体などのような組織の目的である。一度にたくさんの人を先導するのだから、まずお互いのことを気にしないような精神状態に導くことが大切だ。せっかく催眠に掛けたとしても、すぐに我に返って、元に戻ってしまっては元の木阿弥になってしまう。そうさせないようにするためには。余計なことを考えないようにしたうえで、催眠を掛ける必要があるのだ。
強烈な催眠であれば、一度掛かってしまうと、何かの暗示がなければ解けないというではないか、つまりいかに催眠に掛かりやすい状態を作り上げるかというのが重要なのだ。
そのためには、人間同士の信頼関係は一番邪魔になることだ。自分が催眠に掛かっても、相手が掛からなかった場合、他人を意識する気持ちが残っていれば、催眠にかかっても、過去からずっとつながりのある人の言葉を無視できないと無意識に感じると、そこで迷いが生じ、我に返ってしまうことだろう。
たった一瞬の催眠がいかに強烈でも、今までの自分というものを作ってきた基礎が残っていて。意識してしまう以上、洗脳は難しいだろう。
つまりは、ロボットのように、感情を持たない状態にすることが、マインドコントロールの本質ではないだろうか。
そもそも催眠というのはそういうものではないか。意識がなくなった状態で、術を掛けた人のいうことだけを聴く。それがどんなに理不尽なことであっても、聞かなければいけないほど強力なものである。もし、命令者が、
「自殺しろ」
と言えば、命令には従わないわけにはいかない。
「死ぬまで正気には戻れないんだ」
ということの証明のようで、死んで初めて目を覚ますということである。
だから、催眠というのは、本当であれば、人間のように複雑な精神回路を持っているものは掛かりにくいはずなのに、なぜこんなに簡単にかかってしまうのかというと、きっと、人間というものが、
「怖いこと、不安、悲しみ、そして辛さ、苦しさ、つまりは、ネガティブな発想を持っているからなのであろう」
と言えるのではないだろうか。
だが、逆に人によっては、躁状態というのも持っている。(ちなみにつかさは躁状態というものは、人間であれば誰でも潜在しているものだと思っている)
だから、無意識にも意識的になることができる。躁状態には、皆無意識に入っているつもりでいるが、鬱状態が終わりかけると、躁状態が見えてくるという現象から、無意識ではあるが。意識していると思っているのだ。
そんな躁状態を持っていることは、不安というものを裏付けるために必要なもので、不安というものの存在の辻褄を合わせる意味でも躁状態が存在していると思っている。
ただ、不安がすべて悪いものだとも、躁状態がすべてポジティブなことなのでいいことばかりだとは言えないのではないだろうか?