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催眠副作用

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 つかさは、どうやら最初に催眠が解けたようだ。あたりを見渡すと、催眠にかかっている人はほとんどであったが、まだかかっていない人もいた。つかさは、催眠にかかる瞬間を見ようと思い、じっと後ろを見ていた。今までにテレビなどで人が催眠にかかる瞬間は見てきたつもりだったが、今となって考えると、
「あれが本当に催眠にかかる瞬間なのだろうか?」
 と感じた。
 しかも、あれは、テレビというエンターテイメントによる、完全なるショーではないか、この場は一応のお題目としては。
「実験」
 なのである。
 明らかに主旨が違っている。
 そう思うと、今回ここで行われている催眠実験というのは、テレビで行われているショーのような催眠術と同じものだと言っていいのだろうか?
 テレビでよくある催眠術は、かかった人がまったく意識することなく、普段は嫌いで触ることのできないようなものを平気で触ってしまうというものである。ショートして見ると、皆が同じ術にかかって、洗脳されたかのような状況を作り出してはいるが、
「これはショーなんだ」
 ということで、誰もが何の疑いもなく、催眠術にかかった人が当然のように、苦手なものを触ったり掴んだりしているのを見て、
「ほー」
 と驚きながら、実はまったく疑うことがない状況を作り出していた。
 ということは、本当の目的は、術にかかっている人に催眠を掛けることなのだろうか?
 まわりで見ている人たちに、まったく疑いを持たせずに、当たり前のこととしての状況を作り出すことで、演出に一役買っている気持ちにさせる。それこそが、洗脳と言えるのではないだろうか。
「ショーという形式での演出で、集団催眠に掛ける」
 という目的だとするならば、
「催眠術というものは、一つの道具にすぎず、何も催眠術という形式をとる必要などあるのだろうか?」
 と考えるであろう。
 だが、演出が、催眠術だということが大切なのである。
 催眠術を見ていることで、自分たちが洗脳されているということを誰にも気づかせることはないのだ。
「催眠術にかかっているのは、あくまでも術を掛けられている人だ」
 という意識を植え付けられれば、どんなにそれ以降その人に暗黙の術を掛けたとしても、自分が催眠にかかっているという意識はない。
 それは、犯罪事件などの証拠調べで、
「一度調べた場所で証拠が見つからなければ、そこ以上に安全な場所はない」
 という感覚に似ているかも知れない。
「他の人が掛かっている」
 というのを目の前で見せつけられると、まさか自分が一緒にかかっているわけはないという意識が、その人の盲点となり、洗脳しやすくなるということなのではないだろうか。
 もし、それがテレビのショーで繰り広げられているのだとすれば、これ以上の欺瞞はない。つかさは、
「そんなことは信じられない」
 と思いながらも。ここで催眠術の実験を見ていると、どんどんショーとしての催眠術というものが、怪しい存在に思えてならなくなってきたのだ。
 そんなことを思いながら、今誰かが術にかかりつつあるのを見ていた。
 その人は、身体を腰から一周させるかのように、腰をグラインドさせ、頭を前後に大きく振った。
 ロングヘア―だったこともあって、まるで能を見ているような雰囲気を思い出させ、能のあの踊りも、
「まさか、あれも催眠術の一種では?」
 と思わせられ、何かおかしな気分になっていた。
 あの光景は、以前、宗教団体で見たことがあった。教祖を名乗る人が真剣な顔で、信者を動かしている。その時に感じたのは、
「あんなにも巧みに人を操れるなんて」
 という思いであったが、今考えれば、教祖が自分の力で動かしている人は、目の前にいるその人だけだった。集団催眠のようなものを行うことはなく、一人にしかかけていなかったのだ
 そのことを今思い出してみると、そこに何か含みがありように思えてきた。
 つまり、
「本当は皆を集団で洗脳できるのに、一人だけを対象にしてしか、そのことを見せないということは、自分が洗脳を目的とした宗教団体の教祖ではなく、あくまでも、一人の人を救い、それが皆を救うことになるという暗黙の了解のようなものではないか」
 と思うと、
「何て、あざとくて、姑息なんだ」
 と思った。
 確かに、宗教団体というのは、微妙でデリケートである。全員を自分たちの考えと最終的に一致させなければ、目的は達成できない。だから、途中で、余計な先入観を信者に与えるわけにはいかない。最後の最後で団結しなければいけない時に、術が切れてしまうと、元も子もないからであった。
 そのためには、全員が一つの方向を向くまでは、騙したり透かしたりして、皆におかしな疑念を抱かせないようにしなければいけない。だから、催眠術や奇術を使って、信者に対して脅しを掛けたり、彼らの希望になってみたりしなければいけないわけで、その間に洗脳がバレてしまうわけにはいかなかった。
「アメのムチ」
 といかにうまく使うかが彼らの存命に関わってくるのである。
 最終的には、いざという時に、皆が皆催眠に掛かり、その催眠が解けることのないようにしなければいけない。そのためには、何度も実験が必要であり、集会などはその実験に対しての、
「ちょうどいい名目」
 になることであろう。
 だが、最近の宗教団体は、かつての、テロ組織のような団体のせいで、なかなか活動が許されなくなっている。
(断っておくが、作者が考える宗教団体は、限りなく怪しいものではあるが、目的はかつてのテロ集団のような、国家壊滅を目指すものではない。世の中をいい方向に導くためという目的のために、それぞれに様々な方法を持って活動している団体のことだと思っていただきたい)
 しかし、今の世の中は、皆勝手な発想を元に、それぞれで行動していて、統制が取れていないことで、危機に対しても対応できず、または、団結しないと立ち向かえない相手には、実に非力であった。
 それを訝しく思っている団体が、たくさん生まれるというのも必然的なことで、生まれてこないような世の中では、それこそすでに終わっていると言ってもいいかも知れない。
 つかさは。そこまで考えているわけではなかったが、この日の、
「カタルシス効果実験」
 のイベントに参加して、何か目からうろこが落ちたような感覚を覚えたのである。
 確かにカタルシス効果のように、たまったストレスを声を出して発散するというのは、興味のあることであるし、素晴らしいことだとも思うのだが、今回のお題目とはかけ離れたような実験で何が分かるというのかを考えてみると、考えさせられることが多いような気がするのだった。
 宗教団体や、集団催眠。さらには洗脳というテロ組織のようなワードが列記されているが、その部分を切り離して考えようとするための発想が、浄化としての、
「カタルシス効果」
 と言えるのではないだろうか。
 先ほどから身体を回していた人が急に意識を失った科のようにうな垂れてしまうと、今度は隣りの人が同じように身体を大きく降り始めた。
 ということは、さっきの人はうな垂れた瞬間に、催眠術にかかったということでいいのだろう。
作品名:催眠副作用 作家名:森本晃次