催眠副作用
この光景はおろか、小学生の頃に母親に連れられて、宗教団体に参加したことがあるなど、忘れていた。故意に忘れていたわけで、思い出したくもない過去だったのだ。
だから、このまま思い出すことはないと無意識に感じていたはずなのに、ここで思い出してしまうというのは、つかさにとってこの場所は因縁の場所であり、本来なら、このまま何も考えずに飛び出してしまいたい衝動に駆られていた。
だが、隣には弥生もいることだし、いきなり飛び出してしまうのはさすがにまずいだろうと思った。
つかさは、一般論として宗教団体を否定する気はなかったが、自分のこととなると、頑なに拒否したいと思っている。それなのに、なぜ、
「精神分析研究会」
などという怪しげな団体を意識したというのだろう。
「ここは宗教団体などでは決してないのだ」
という意識があるからだろうか。
あくまでも、団体のやっていることは、精神分析の研究であり、心理学や精神医学の見地から、今回の催眠術を見ているつもりだった。
だが、実際に催眠に掛かってしまうと、催眠にかかっていることを悪いことだとは思わず、何よりも、
「催眠にかかっている間は意識がないもののはずだ」
と思っていたことと、違っていることに気が付いた。
だが、今回もそうなのだが、今まで催眠術に他の人が掛かっているのを見た時、
「一体、どんな状態なんだろう?」
という目で見ていると、その様子は、本当に無意識にしか思えない。
自分だけが他の人と違っているように感じるのは、それだけ無意識に感じるからではないだろうか。
つまり、催眠術はかかっている本人と、まわりから見ている状況で、別人を浮かび上がわせているようで、
「ジキルとハイド」
を感じさせた。
それとも二重人格な様子が、自分の意識という壁の内と外で違って見え、それが正反対の状態であれば、
「ジキルとハイド」
という発想になるのだろう。
催眠術を研究していた人も、催眠術を掛けることによって、何かの効果が得られると感じているから催眠術が発展していったのであって、決して見世物でも何でもないと思いたい。
今日のこのイベントだって、名目は、
「ショー」
ではなく、
「実験」
ということになっているではないか。
確かに実験という言葉にも違和感があるかも知れないが、
「本当に実験という言葉が悪いことなのだろうか?」
と考えるが、果たしてどうなのだろう?
「麻酔をかけるのと、催眠とはどう違うのか?」
という話もあるが、
「麻酔は、完全に意識を失わせ、その間に手術を行って、病気を治すという目的がある。催眠というのは、精神的な病気を治すのに、感情をマヒさせて、その間に精神的な病を治す」
というものではないだろうか、
つまり、麻酔というのは、感覚をマヒさせるものであって。催眠というのは、感情をマヒさせるものではないかという考えである。
麻酔の場合は効力が落ちてくると、自然と引いてくるものである。クスリとして投与するのだから、人間が麻酔を解くということはできない。
しかし、催眠の場合は人間がその人に意識して描けるもので、本来ならその時に治療も一緒に行うべきなのだろうが、なかなかそこまで進歩していないというのが現状なのかも知れない。
それを思うと。今の催眠療法は、まだまだなのかも知れない。ずっと昔から研究され続けて、いまだに実験と称しているくらいなので、それも仕方のないことなのかも知れないが、それだけ人間の中に潜在している、精神は神経というものは同じ人間が解明しようとすること自体無理のあることであり、かなりハードルが高いということなのだろう。
麻酔の場合は、医学の進歩とともに発達してきて。ほとんどの人が麻酔に対して不安を感じているわけではない。
手術を受ける前に、いちいち、
「麻酔から覚めなかったら、どうしよう?」
などと考える人はほとんどいないに違いないからだ。
催眠術の場合は、掛けられるのを極端に嫌う人は少なくない。
それこそ、
「元に戻らなかったらどうしよう」
と思うからに違いない。
しかも、催眠術には、麻酔を使う医者のような、れっきとした免許を持っていた李、絶対的な信用がある人ではなく、テレビなど人気の人であっても、誰がその安全性を証明してくれるというのだろうか。
それを思うと、催眠術というものが胡散臭いものだと考えてしまうのは、誰にでもあることなのではないだろうか。
催眠術にかかるというのは、ゆうきがいることだ。演台にいる女の子がどういう経緯で今日の、
「実験台」
になっているのか分からない。
ひょっとすると、催眠術を掛けている人の娘かも知れない。
「他人を巻き込むよりも自分の娘を」
と考えているのであれば、それも潔いと言えるかも知れないが、催眠に掛けられる子供は溜まったものではない。
それこそ、親からずっと洗脳されてきているのかも知れないし、催眠を行うにもその前に洗脳しておく必要があるのだとすれば。それは何かが違う気がする。本末転倒ではないかと言ってもいいだろう。
催眠術の効果は、この会場では抜群の効果を生んでいるように見えた。
それは、演台で催眠を掛けている人の力なのか、それとも、媒体になっている演台に座っている女の子の影響なのか。それとも、ここにきている人は、皆催眠に掛かりやすいということなのか、ハッキリと分かっているわけではないが。演台の女の子の力だけは認めないわけにはいかないと思ったつかさだった。
催眠術というものが今までの自分の中でどのように影響していたのか、この時に思い知らされるような気がした。
――過去にも催眠術にかかったことがあったのかも知れない――
と感じたのは、まわりと自分の催眠のかかり方に違いを見たからだった。
催眠にかかってしまうと、自分の過去と照らし合わせようとする意識が生まれてくるというのが、今回の催眠で感じたことだった。今は
「催眠から覚めなかったら、どうしよう?」
という意識はなかったのだ。
催眠術にかかってしまうと、洗脳されたイメージも強くなって、本当に元に戻るのかということを疑問視するのも無理のないことであった。しかも、催眠術は麻酔のように、時間が来たら、自然と切れてはくれない。ひょっとすると。時限装置のような催眠もあるのかも知れないが、考えにくいことだった。
催眠や麻酔と違って、睡眠というのも、毎日誰も気にせずに行っていることである。時間帯はバラバラかも知れないが、必ず普通の人は一日に一回は睡眠という時間を摂る。
睡眠は、摂らなければ命にもかかわることなので、無意識に摂っていると言ってもいい、食事や性欲も、摂らなければ生きていくことができないものの一種であろうが、無意識に行うことではない。睡眠の場合は、眠くなってしまうと、そのまま無意識にでも睡魔に陥る。無意識に陥ってしまうから、「睡魔」というのかも知れない。
食事を摂るのは、「食欲」、性を欲するのは、読んで字のごとしで、「性欲」というが、睡眠は欲という言葉で言い表すことではない。きっと潜在しているものの中でも一番密接にかかわっているので、欲という言葉が介在する余地すらないのだろう。