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催眠副作用

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 高校時代は、暗かったというイメージしか残っていないが、それでも、絶対的に遅れてしまうという焦りがなかっただけに、そこまでの落ち込みはなかった。だから、時々怖い夢を見たという意識はあるのだが、毎日ではなかった。
 それでも、怖い夢を見て、それに驚いて目を覚ました時、
「まるで昨日も怖い夢を見て、目を覚ましたかのように思えて、生々しく思い出せるくらいだ」
 と思ったほどだった。
 だが、浪人時代は毎日のように怖い夢を見ては、変な汗を掻いて目を覚ます。それだけに半分慣れっこになってしまったかのようだった。
 だが、不思議なことは、後から思い出すと浪人時代よりも、高校時代の方が、不安を感じていたような気がする。浪人時代は、一度高校を卒業し、大学受験を経験した。合格はしなかったが、経験だけはしたということで、不安が高校時代よりも薄かったのかも知れない。
 だから、焦りもあり、現実として一年は前に進めないという呪縛を感じていたのだが、なぜか不安を感じることはなかった。高校時代は、前に進めないということはなくて、比較的気持ちとしては自由だったはずなのに、言い知れぬ不安に駆られていたことで、浪人時代よりも暗くて怖かった気がした。
 浪人時代のようにリアルな思いは、不安には結び付かない。どちらかというと。大学時代のようにまったく何も知らないということの方が恐怖に近かったのだろう。
 目の前の少女を見ていて、浪人時代の自分を思い出したことで、彼女はリアルな問題は抱えているが、経験をしたことで、不安な気持ちからは、少々免れているような気がしていた。
「高校時代と浪人時代」
 受験に失敗したということで、自分の人生に捻じれが生じ、精神的にどちらが不安定なのか、焦りを伴った精神状態が、時系列をマヒさせているようで、今の自分が有頂天なくせに、何ともいえない不安が背中合わせでいることに、この時気付かされた気がしたのだった。

                 催眠効果

 自分がいかに催眠術には掛からない人間だと意識していたとしても、意外とそういう人間の方が掛かってしまうものなのかも知れない。そもそも、催眠術を信じていない人や、自分が掛からないと思っている人は催眠術が行われる会場を訪れたりはしない。あくまでも催眠術というのは、治療であり、見世物ではないと思っているからだ。
 確かに、
「怖いもの見たさ」
 という感覚はあるだろう。
 しかし、それこそその言葉が表しているように、催眠術が、
「怖い」
 のだ。
 催眠術にかかることが怖いのか、まったく意識がない間に何をされるか分からないというのが怖いのか。だから、その恐怖を少しでも和らげるという意味で、衆人環視の元であれば、少なくとも、法に触れるようなことであったり、自分にとって不利になるようなことはないだろうという考えではないだろうか。
 魔術やマジックにしてもそうである。時々、観客が演台から促されて、舞台に上がっていくことがあり、マジックの、
「お手伝い」
 をさせられることがあるが、こちらが危険になることはない。自分が気付かない間にことは済んでいることが多く、何があったのか分からないが、自分が拍手喝さいを浴びてりするのだ。
 マジックにおいても、一種の催眠術にかかっているのかも知れない。その理由として考えられるのは、
「舞台に上がって意識があるままでは、危険が目の前にあった時、反射的に避けてしまったりして、マジックを掛ける人間の想定外の講堂をすることで、被験者を危険に晒してしまうことになる」
 という理由と、もう一つは、
「裏で意識があると、マジックの種を見られてしまうことになるので、それは裂けなければいけない」
 という理由が考えられるだろう。
 どちらもマジシャンとしては、致命的で、どちらも解消するには、催眠を掛けてしまって、意識のない状態にすればいい。
「マジックの被験者なのだから、途中意識がなくても、それは無理もないことだ」
 という考えさえ植え付けておけば、被験者の方も安心であろう。
 マジックにおいて、この感覚はまるで昔からの暗黙の了解とされてきているようで、催眠にかかっている間に、被験者はその思いを植え付けられる効果もあるのだ。
 つまり、マジシャンが被験者に対して、催眠を掛ける場合、実際に掛ける催眠の中にはいくつか複数の効果を生むようになっている。その効果は連鎖するものであり。一種のメカニズムのようになっているのかも知れないと思うのだった。
 今、被験者ではない自分が、演台に座っている被験者の女の子を見ているうちに感じたことである。そしてもう一つ、
「私も催眠にかかっているんだわ」
 という思いがあったのだ。
 明らかに演台の女の子は、催眠術にかかっている。そのかかっている女の子を見ていると、まるで自分の過去と照らし合わせている自分を感じた。
 その時、なぜか、催眠術というものがどういうものなのか、考えている自分がいることを感じたのだ。
 普段、冷静になっている時に考える催眠術というものがどういうものかという発想とはまったく違った発想かというと、そうでもない。ただ、人が掛かっている催眠を目の前で見せつけられたことで、自分もその催眠にかかっていると思い。
「催眠というものは、伝染するものなのかしら?」
 と思わせた。
 伝染という言い方と、連鎖という言い方があると思うが、どちらがふさわしいのだろうか?
 伝染というと、まるで病気のように、人から移ったという意識が本人にあるものであり、逆に連鎖というと、本人に意識はないが、まわりから見ると、被験者の影響を受けていると感じさせられるものではないだろうか。
 今日の場合の、この催眠というのが、伝染なのか連鎖なのかというと、つかさは、
「伝染だ」
 と思った。
 なぜなら、自覚があるからである。
 しかし、まわりにもつかさが、演台の女ん子の影響を受けていると思えば、それは連鎖のように見えているわけであり、
「この催眠は連鎖の影響もあるのではないか?」
 と考えたりもしたのだが、その理由は、自分が演台の女の子の影響を受けて催眠にかかっていると思って、これは無意識にまわりを見た時、隣の少し離れた一人の女性も、催眠にかかっている様子が見えたからだった。
 腰から上の身体をぐるぐる回すようにして、身体全体で何かを表現しているかのようだった。
 以前、連れていかれた宗教団体の教室のようなところで似たような光景を見たのを思い出したが、その時はまだ子供だったので、ただ怖かったという印象だった。
 その時は、まだ小学生だったつかさが、母親の友達から紹介されたということで、つかさを連れて恐る恐るであるが、覗きに行った宗教団体の教室で、同じように、教祖と思しき人がいる演台を見ながら身体を回していたのだ。
 それを見た時、
「こんなところにいちゃあいけない」
 と言って、母親はそそくさとつかさを連れて、その場所を去ったのだ。
 つかさには何が起こったのか分からなかったが、その場を立ち去ることは、
「宗教団体と催眠術の組み合わせは恐ろしいことになるんだ」
 という意識を植え付けたのかも知れない。
作品名:催眠副作用 作家名:森本晃次