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催眠副作用

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 昔から、確かに男色、衆道などと言われていた時代、戦国時代などの戦が中心であった時代などのような、今の我々から想像もできない時代であれば、致し方がないかと思うが、そういう意味で、同じ時代に生きていても、年代でまったく違う時代を生きているかのような若者と、昭和からの人間とでは大きな違いがあるだろう。
 だが、若い人の中にも、今の若者とは一線を画した考えを持っている人もいて。令和よりも昭和に近い考えの人だっているに違いない。つかさもその一人で、今の小説やマンガを読むよりも、昭和の小説を読む方が好きだという人だっているのだ。
 つかさが、まず嫌だと思ったのは、マンガに描かれたキャラクターだった。自分が好きになれないキャラクターが多くいて、さらに、見ていると、皆同じ顔に見えてくるから不思議だった。
 一人の作者が、違うマンガで同じ顔を描いているというのは、その作家の個性なので、それは当然認められるべきものだと思うのだが、違う作家なのに、なぜか同じ顔に見えてくるのは、なぜなのかよくわからない。
 マンガを嫌いになったのは、その頃からなのかも知れない。
 キャラクターの顔が似ているだけではなく、劇画調であれば、その表情の作り方の技法もソックリに見える。だから、キャラクターが酷似しているように見えるのかも知れないと思った。
 どうしても、似ている人がいると、
「誰かの絵をマネて描いている」
 と思えてならないのだ。
 もちろん、最初にマンガを描きたいと思った時、描けるようになるまでの練習として、誰かの絵をマネてみるというやり方をする人は少なくないだろう。だが、それはあくまでも、
「他人の画法」
 であり、自分のものではない。
 本当にそのことを分かって描いているのだろうか?
 そのことを分かって描いているとすれば、つかさには、それは確信犯にしか見えなくて、言い訳の利かないほどの罪だと思っている。
 では気付かずに描いている人はどうなのだろう?
 つかさの考えとしては、罪とまでは言わないが、マンガ家としては失格なのではないかと思っている。それはつまり、プライドの欠片もない人間のやることで、少しでもプライドがあれば、自分の絵が誰かの、
「パクリ」
 であるということに気づくはずである。
 それに気づかないということは、プロとしての自覚も、プライドもないのと同じで、見るのもおぞましいと考えていた。
 確かにプロになると、雑誌社の編集部の意向などが大きく左右する世界なので、まず何と言っても、
「売れる作品」
 の製作が急務なのである。
 個人が趣味で描いているのであれば、売れる売れないは関係ない。何しろ売るための機会ではないからだ。しかし、プロは、
「売れてなんぼ」
 であり、
 売れるから、出版社も原稿の依頼にくるのである。
 しかも、その依頼を断ることはできない。
「できないということであれば、他の作家に依頼する」
 と言われてしまえば、終わりだからだ。
 作家とすれば、維持やプライドを押し通したつもりなのだろうが、出版社にはそんなことは関係ない。やつらの目的は売れるものを売って、自分の成績にする。売れなければ自分の責任問題という世界に生きているのだ。作家が誰であっても、やつらにとっては、道具でしかない。
 あくまでも、外部から見た勝手な想像でしかないのだが、道具でしかないマンガ家は、プロであることで、
「自分の描きたいものが描けているか?」
 という気持ちと、
「プロである以上、売れる作品を描き続けなければいけない」
 というジレンマに悩んでいるかも知れない。
 その気持ちも痛いほど分かる気がしている。しかし、実際に自分たちは世に出てきた作品がどのような過程やドラマによって作成されたものなのか、知る由もない。もちろん、簡単に出てきたものではないと想像はつくが。やはり、売れると言われるものばかりが世に出回るのは、どこか抵抗がある。
 まるで出版界によって作られたブームに感じるからだ。
 世間のブームがマンガに影響するものもあれば、マンガがブームの火付け役になることもある。だが、つかさは、そのどちらも嫌いだった。
 マンガというものが世間を動かすのであれば、世間は二次元によって動かされていることになる。マンガが映像化されて、アニメとして放送されるだけではなく、最近では、ドラマの原作が、マンガだったりすることも多い。そういう意味では、
「映像化されやすいマンガ」
 というものの、需要も大きいのかも知れない。
 そう考えてくると、小説がドラマの原作だった時代から比べて。その領域にマンガが入り込んできたということは、やはり、マンガが小説に近づいてきたということになるのだろうか?
 それとも、小説の最大の武器である想像力が人々の中で鈍ってきたということであろうか。
 とにかく、小説とマンガというものの差が縮まってきたことで、今までは小説は小説の楽しみ方があったと思っていた人がマンガに走ってしまうというのもありえないことではない。
 なぜなら、マンガはビジュアルに訴えられ、それがそのままアニメになったり、ドラマになったりするのだ。それだけ昔に比べると、マンガのジャンルも多様化してきたと言えるのではないだろうか。昭和の一時代であれば、ギャグマンんが、SF、ロボットマンガ、あるいは、スポーツ根性もの、などが多く、アニメにはなっても、実写化は難しいものがあったように思えた。
 実写化をしても、どうしてもアニメのようにはならず。演技をする役者も、ドラマを作るスタッフも原作がマンガであれば、きっと難しい部分が多かったのだろう。それが今ではマンガ自体が映像化に特化したかのような作品も多く。恋愛もの、サスペンスものと、同じマンガでも読者層が別れていたものが多かったことだろう。
 そう、マンガの急激な発展には、
「読者層の変化」
 というのもあるかも知れない。
 小説にしてもそうであるが、ある一定のジャンルを好きで読んでいる人は、他のジャンルの作品をあまり見たいとか、作家に特化するという人もいるだろう。だが、最近のマンガは、ジャンルに特化するという人が減ってきたような気がする。
「どんなマンガでも楽しければ読む」
 という人が多く。考えてみれば。これは昔からの風潮でもあるが、みんなの話題に乗り遅れないように、見るという人も多いことだろう。
 だが、小説を最初に読み始めた時は、面倒くさがって、ついついセリフだけを呼んでしまって、情景を思い浮かべることなく読んでいたため、内容に辻褄が合わず、最後には何を読んでいたのか、分からないという状態になっていたのを思えば、最初からマンガしか読んでいない人は、マンガなりの想像力が養えているのかも知れないと思うのだった。
 ただ、それを本当の想像力として認めることができるかと言われると、つかさは認めることができない。だからこs、今も昭和の古い小説を読み漁っているのだった。
 つかさのSっ包摂の読み方が最近変わってきていた。
「作者の目になって、読む」
 という意識が強くなってきた。
作品名:催眠副作用 作家名:森本晃次