催眠副作用
あくまでも、小説は最後まで読んでなんぼである。最後まで読み終わる前にハードルを設けることはしない。もしハードルがあるとすれば、想像することができない小説である。つかさは、それを小説だとは思っていない。違ったジャンルであるという思いを抱くが、自分とは世界の違うものだと思うことで、読むのをやめるというそもそもの感覚とは違うと言えるであろう。
想像力に発展はあっても、失望はないことから、想像力が頭の中で完成した時点で、初めてのハードルを迎えることになる。
そのハードルはゴール寸前にあるもので、飛び越えてからまた。新たなコースが待ち構えている。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉、そのものだと言えるのではないだろうか。
小説から入った人間がマンガを見て、最初に感じたハードルが何と邪魔なものであろうか、そこに絵があるために、一番の醍醐味である想像力を働かせる余地がないばかりか、嫌いな絵であれば、
「裏切られた気がする」
と、相手からすればそんなつもりなど微塵もなく勝手に思い込んでいるくせに、一人の読者を失うことになるのだ。
そういう意味で、マンガは分かりやすいだけに。つかさと同じように。最初で瞬殺してしまう人も多いかも知れない。それもつぃかさは嫌だった。
「もう少し楽しませてほしいよな」
という考えをマンガという世界は、簡単に打ち砕くことになるのだ。
想像力も及ばないマンガという世界に、早々と見切りをつけたのは、そういうことであった。
「マンガは日本独自の大切な文化だ」
という人もいるが、つかさはそうは思わない。
文学があって。絵画がある。マンガは幻術という中で、何とも中途半端な存在であり、なぜにこんなにももてはやされるのかが分からない。ドラマや映画の原作でも、ほとんどがマンガではないか。絵を映像にしたところでどのような想像の発展があるというのか、信じられない。しいてマンガがいい点といえば、
「どんなに名作と言われる作品であっても、いや、名作と言われれば言われるほど、映像にするとその素晴らしさが失われてしまう」
ということではないだろうか。
想像力
やはり、ここにも想像力というものが絡んでくる。それは、マンガと小説の関係にも似ているのかも知れない。
「映像というのは、小説と違って、想像を形にしたものであるということから、『想像していたものと違った』と見た人間に思わせれば、よほどイメージが違ったうえでも素晴らしいと相手に思わせなければ、愚作になってしまう。何しろ、想像というものが、読書における最大の『結果』なのだから」
ということなのではないだろうか。
マンガも同じことで、結局は想像力の及ぶところが最初からないのである。小説を読んでいて満足していた人間が、マンガに走れるわけはないのだ。マンガの方が面白いと思っている人間は、自分の想像力にどこかしかの不満や自信のなさを持っていることによって、想像力の働かない、いわゆる安易に内容が理解できるマンガを簡単に受け入れられるのだろう。
つかさはそんな風に解釈していた。
かと言って、マンガを見ないわけではない。ドラマの見ないわけではない。小説と比較すると、その劣等性は否定できないが、なぜか見てしまう。どこか自分の想像力に不満でも持っているということであろうか?
そんなっことを考えていると、今まで信じられないと思っていたイリュージョンの世界を、
「信用してもいいのではないか?」
と思うようになっていた。
それが外面的なところでは、ホラーや超常現象の世界であり、内面的なところとして、催眠術や心理学の世界だと思っている。
だから、昔の探偵小説を読んでいて、心理学の世界に触れているような変格探偵小説に惹かれた理由だと言ってもいいだろう。
読む小説も、現代のミステリーや、少し前までの推理小説と呼ばれるものを読もうとは思わない。かといって、今のホラーやSF、オカルトにしてもそうである。
どうしても現代の小説は、見た目の印象を想像させるような形の小説が多いように思えた。数ある中の一部しか知らないので、そう思うのかも知れないが、最近の小説は、
「ライトノベル」
などというものが流行っていて。ジャンルという分類に属するものではなく、大分類の中に、
「ライトノベル」
という新種のものが存在している。
つまり、
「ライトノベルという大分類の中に、ミステリーであったり、恋愛小説であったり、SFなどと言ったジャンルが揃っている」
と言えるであろう。
ライトノベルとはどういうものなのかという決定的な定義は曖昧な気がしているが、基本的なところで、ケイタイやスマホなどで小説を書くという文化が流行り出した昨今、まるでブログで日記を書くような感覚で書かれ始めたのがライトノベルというジャンルに発展したのだろう。
略称「ラノベ」は、短い雲霄で、やたらに無駄な改行があり、マンガや挿絵を多用していて。キャラクター中心の作品が多く。そしてラノベの最大にして共通の定義としていえることとすれば、
「読者ターゲットが、若年層である」
ということであろうか。
つかさのイメージとしては、
「限りなくマンガに近い小説」
という意識であり、小説とマンガの間だとすれば、マンガに限りなく違いが、体裁だけは小説の形をとっているということになるのであろう。
そういう意味で、マンガかもしやすく、映像化にもなりやすいのかも知れない。あまりにも漠然とした若年層の感性に寄り添っているため、ある意味想像力がいるのかも知れない。
だが、同じ客年艘でありながら、そんな感性についていけない。いや、ついていく気にもならないつかさはラノベを毛嫌いしていた。そのため、ミステリーが探偵小説と呼ばれていた時代の作品を読み、そこに心理学が絡んでいることを見つけると、心理学に興味を持ってきたという次第でもあった。
少なからずの同年代を含めた若年層に、不満や嫌悪を感じているというのが、本音なのだろう。
らいとのべるという小説のジャンルの中に、BLなどというジャンルがあるという。実際に読んだこともなく、マンガにもあるというからビックリだ。
BLというのは、いわゆるボーイズラブ。ホモ、ゲイなどの世界である。今までの小説の世界では、変格小説の中でもあまり扱われていなかったジャンルで、変格の中でのりょき的な性的行為というと、SMであったり、羞恥プレイなどはそれにあたったのだろうが、それも時代というものが背景にあって、描かれた世界である。
当然、社会問題にもなったであろうし、検閲も難しかったであろうが、今のように比較的自由ではあるが、社会通俗的に分かりやすい結界があるのではないかと思える時代に、ジャンルとしてBLなるものが存在しているということは、これを一つの文化として見ている証拠であろう。