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催眠副作用

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「その時代には様々な理由で自殺が起こっていたが。中には、このような理由での自殺もあり得る」
 ということをテーマとしていたのだろうと思った。
 これは、作者が言いたかったことではあるが、果たして読者に伝えたいことなのかどうか、それもよく分からない。
 小説というものは、確かに読者ありきのものであるが、必ずしも読者に何かを訴えるものではいけないと言えるのであろうか。言いたいことがあって、それを言うだけではいけないのだろうか。読者の心に響く小説が、なるほど、
「売れる小説」
 であり、小説としての理念なのかも知れないが、この小説を読んでつかさは、確かに作者の言いたいことが分かったように思えたが、伝えたいことだったのかというと、少し違う気がする。
「こんな小説があってもいいな」
 と思ったが、それは、上から目線ではない小説に出会えたことが、この小説の中のカタルシス効果のようなものではないかと思えた。それだけ、自由で豊かな発想になれるということであろう。作者の気持ちになることができるという、そんな小説であった。
 他の小説を読んでみうと、そこには「模倣犯」に関する話があった。
 模倣犯というと、人のマネをするというイメージが強いが、その犯人が一体何を目論んで模倣しているのかということが分からない。そこにどんな心理的な要素が含まれているのか分からないことが多い気がするが、冷静に考えると、模倣犯は頭脳犯罪でもある。
 例えば、凶器を隠す時などにも応用できることで。
「一度警察が調べて、何も発見されなかった場所に隠すというのは、隠し場所としては一番安全な場所」
 という話がある。
 これも心理的な問題であるが。一度調べた場所は、もう二度と調べたりはしない。そこに隠しているわけはないという発想よりも、もう一度調べる時間と手間が、実際に考えればないはずだというのが根底にあるのだ。
 だから怪しいと誰か一人が思ったとしても、二度とは調べない。しかも、そこが捜査令状を取ってまで調べた場所であれば、もう二度と捜査令状を取ることないだろう。もし、また捜査して何も出てこなかったら、警察の信頼は地に落ちてしまうから、そんなことはできるはずもない。
 だが、実際にそうやって、一度調べたところにもう一度隠すというのは、実際の事件ではあまり聞いたことがない。むしろ探偵小説の中で。トリックとして、わざわざ取り上げる場合はあるが。そのことを掘り下げて話題にすることはないだろう。要するに、
「目立ちにくい、犯罪トリックの目玉と言えるのではないか」
 というものである。
 そういう、
「心理の盲点を突く」
 という意味での模倣犯であれば、単純な
「人のマネ」
 というものではなく、愉快犯としてではない、緻密な犯罪計画の核心であると言えるのではないだろうか。
 つかさが読んでいて、実際には面白い話ではなかった。トリックが目立つわけでもなければ、内容も淡々と進んだ。
 模倣犯を全面に押し出して、連鎖反応のようなものとの比較を描いている程度であれば、探偵小説の醍醐味を味わいたくて読んでいる人間には、甚だ物足りなさがあって当然であろう。
 だが、蘭亭小説を深層心理という観点から読んでいると、模倣犯の考え方が、
「玄人好みするもの」
 と考えることもできるであろう。
 玄人好みというのは、
「大人の小説」
 だと思っている。
 深層心理を描く小説を大人の探偵小説だと思っていて、それが、変格探偵小説の存在意義のようなものだと思っている。
 揉歩班がその、
「大人の探偵小説」
 に該当すると自分でも思っているくせに、どうして、物足りなさを感じたのか。
 それが模倣犯と呼ばれる犯罪ジャンルの真骨頂であり、物足りなさを味合わせることで、さらに、別の模倣犯小説を読ませるようにさせる。
 そうなると、最初が物足りなかったはずなのに、次第に少しずつではあるが、楽しみを見つけようとしている自分がいる。
 それはまるで最初を百として楽しめるように自分からハードルを下げていくようなものだ。つまりは減算法の読書術なのではないだろうか。
 それを引き出すための作風術に、模倣犯の小説があるのだとすれば、うまく読者が作者の術中に嵌ったことにはなりはしないだろうか。
 他の小説が、作品だけで勝負するのに比べて。模倣犯事件は、ジャンル全体で読者に挑戦しているような感覚だ。
 作者側も、
「いかに、読者に欺瞞を与えることができるか?」
 が肝である。
 小説のトリックの中に心理的トリックとして、叙述トリックというのがあるが、ジャンル全体で叙述しているかのようなトリックに果たして気付く読者がいるのだろうか?
 いや逆に模倣犯というものを受け入れることができた読者は、最初から叙述に引っかかってしまったことに後で気付き、
「最初から分かっていたかのようだ」
 と感じるつもりになって、小説を読んでいたに違いない。
 他の小説との違いに気づいた読者は、どこか自分が玄人になったかのような思いを抱くだろう。それが錯覚かどうか、誰に判断がつくというのだろうか。
 小説を読むのがs浮きではあったが、元々面倒臭がり屋だったこともあって、ついつい、途中をすっ飛ばして、前ばかりを見てしまうくせがあった。
 つまり、
「セリフの少ない小説は読みたくない。いや、読めない」
 という感覚があったのだ。
 だから、一時期、マンガに流れてしまいそうになったことがあった。だが、小説から入った人間がマンガを読むと、そこか物足りなさがあった。それがどこなのか分からなかったが、
「絵を見るということは、知らず知らずにキャラクターやその絵の好き嫌いに目が行っている」
 ということに気が付いた。
 絵の好き嫌いが、キャラクターから来ていることは分かっていた。最初に見て。
「このタイプの男性は嫌いだ」
 と思うと、二度とその作家の作品は読みたくない。
 最初にキャラクターありきで作品に接してしまうからだ。
 小説から入った人間には、それが許せない。物足りなさを感じるからなのだが、その物足りなさが、見た瞬間に秒殺で嫌になるということが分かったからだ。
 どんなに好きな絵であっても、絵だけを判断してその本を、ましてや作家を好きになることはできない。あくまでも最初のハードルを突破しただけのことなのだ。つまりはマンガを見ていて、最初のハードルに失敗すれば、もう見る気はなくなるのだ。
 だが、これは小説も同じだった。だが、小説の場合は、マンガと違って、瞬殺ということはありえない。なぜなら、マンガのように好き嫌いを判断する材料がないからだ。
 その材料というのは他ならぬ、絵のことであり、絵がないから、自分で勝手に想像することができる。物語に合わせて絵を想像していると、その人の顔が想像できる場合と、のっぺらぼうのように想像できない場合がある。顔が想像できなかったからと言って、小説を読むのをやめたりしない。そこにハードルが存在しないからである。
作品名:催眠副作用 作家名:森本晃次