催眠副作用
「フロイトという人は、人間の精神的な研究には、性的感情との結びつきが深いと言っているような気がするのよ」
と言っていた。
「どういうこと?」
「彼は精神分析の中で、リビドーや幼児性欲などの研究もしているのよ。人間が成長していくうえで、性欲とは切っても切り離せないものであるらしいのよ。つかささんは、人間の性欲って、思春期以降からだと思っているでしょう?」
と訊かれて、
「ええ、確かにその通りだわね」
と、つかさは答えた。
「でもね、人間の性欲って、生まれてからすぐにもあるということなのよ。例えば、母親の母乳を吸う時の口が、すでに性欲であったり、幼児の頃、排泄の時に、肛門に感じるものが性欲であったりね。これは別に恥ずかしいことではなく、誰にでもあることだというの。もしその幼児性欲と呼ばれる感覚のバランスが崩れると、異常性癖に陥る遠因になるのかも知れないわ。それにね、この間からよく聞く『カタルシス』という言葉があるでしょう? 基本的には浄化というのが一般的な意味になるんだけど、排泄という意味もあるらしいの。人間の排泄という行為は、そういう意味では幼児の頃から大切なものだったに違いないわ」
と弥生は答えた。
「じゃあ、リビドーというのは?」
とつかさは訊いた。
「リビドー論というものがあって、人格形成をすべて広義の性欲に求めて、説明したらしいの。この場合の性欲のことを、リビドーと呼ぶのよね。でも、この説にはどうしても、性的発想に対しては、敏感に反応する人もいたりして批判的な考えの人も多いんでしょうね。でも、完全に否定することもできないから、今でも論争や批判を受けながらも、残っている発想だとも言えるんでしょうね」
と弥生は説明してくれた。
よく調べたものであり。今ではネッ友発達しているので、調査にもさほどの時間はかからないだろう。それだけに、今度は膨大な情報量から、必要なものだけを抜き出す作業が多くなってくる。
昔は加算法だったのだが、今では余分なものを省くという意味で、減算法だと言っても過言ではないかも知れない。
弥生の話には説得力を感じるのだが、これは相手が女性だという意識が、無意識のうちに形成されているからなのかも知れないと思うのだった。
もし、男性にこのような性欲の話をされたらどうだろう?
例えば、目の前の先輩から、性欲に対しての話をされて、大切なこととして説得力を挙げることができるだろうか。それよりも、自分の身の安全を最優先に考え、異性というものが自分に対して性欲の対象として見てきた場合は、そこに愛情が入り込まないと思うのは危険かも知れない。
ただ、まったく入りこまないわけではなく、入ってきてもまずが性欲のはけ口という発想が先に立つ。男性はそれでいいのかも知れないが、女性はそうはいかない。太古の昔から、性欲の体操とされた女性の結末は悲惨なものだと考えられているからであろう。
そう考えると、
「心理学というものは、異性を性欲の対象とすることへの言い訳であるのかも知れない。言い訳をするために、性欲というものを正当化し、それを人間の当然の感情として考えることで、人間全体から個人に落とし込んだ時、いかに理解できるかが問題になるのではないか?」
と言えるのではないだろうか。
そのわりには、心理学や精神分析という学問が、一般人からかけ離れたものであると考えるのは、どうなのだろう?
言い訳であるならば、もっと世間一般に普及していて、その考えが前面に出てきていてこその言い訳のはずだ。それを許さないのは、きっと性欲というものが宗教などでいうところの禁断のものであって、
「犯してはならない聖域」
というものではないかとも考えられる。
その部分をカタルシス効果は逆行しているのではないだろうか。
今までにカタルシス効果なるものが、近年のフロイトの出現までに、誰も提唱しなかったというのも、おかしな気がする。きっとそれだけ性というものが禁断のもので、侵してはならない性癖だと思われていたからだと考えないと、理屈に合わない気がしてくるのだった。
つかさはそんなことを考えている自分が時々怖くなる。
高校時代に味わった躁鬱症が、怖さを誘発しているのかも知れない。
高校生活から、泥沼とも言える浪人生活を経て。やっとそれまでと百八十度違う大学生活に入ることができたというのに、どうしても不安が先にあって、素直に楽しむことができないでいた。
その不安とは、
「不安を感じながらも大学生活に無意識のうちに嵌り込んでしまって、不安を持っているという意識がありながら、染まってしまうことが怖いのか、それとも、不安を抱いたまま、無意識に大学生活に染まってしまうのが怖いのか」
つまりは同じことのようだが、順序が違ってしまうために、同じ結論でも、その度合いには天と地ほどの違いがあるのではないかと感じることだった。
不安を意識してしまうと、無意識に普段なら意識してしまうことを感じなくなってしまうという、
「感覚のマヒ」
というものが恐ろしいものとして意識されることになるのだろう。
友達になった弥生とはそういう話をしたいのだが、話をしているうちに、
――これが本当に私の言いたかったことなのだろうか?
と考えさせられることがある。
会話というものに相手があるのだから、自分の想い通りにいかないのは当たり前のことである。
無意識に、
「友達などいらない」
と思っていたその理由として、
「友達と一緒にいると、自分の思っていることを自由に感じることができなくなってしまうのではないか?」
という理屈から成り立っているのだった。
弥生という女の子を見ていると、天真爛漫で自分とまたく違った性格に思えていたのだが、話をしているうちに、発想が似てはいるが、お互いに相手を認めることのできない結界を持っていて、相手の結界は見えるのに、自分の結界というものを意識できていないように思えたのだ。
弥生という人間が、果たして今までの自分の中にいたものなのか、それとも将来の自分の中で、弥生と酷似した自分が現れるのではないかという、理屈としてどこかで自分と交わるところのある相手だという考えが生まれてきたのだ。その思いは知り合った時からあったのか、途中から芽生えたのかは分からないが、考え始めると、切り離して考えることができなくなっていた。
そんな弥生が翌日になると、面白いものを持ってきた。図書館で見つけたと言って、少し厚めの本を取り出し、
「この部分なんだけど」
と言って指差した部分は、リビドーについて書かれていた。性犯罪というものをリビドーの考え方で見てみようという主旨の本なのではないだろうか。
どうやらその分厚い本は、過去の犯罪について書かれたもののようで、今から九十年くらい前のお話だった。
つかさの意識の中を紐解くようにして。
「大正末期か昭和初期の政治的に激動の時代で、東京は関東大震災の後の復興の時代ということかしら?」
というと、
「ええ、ちょうどそのくらいの年ですね。この時代は政治も不安定で、だけどまだ軍部もそこまで強くなかったので、犯罪も凶悪なものがあったのかも知れない」
と弥生が言った。