催眠副作用
では、人間をまた別々の人種として考えた場合。例えば黒人、白人、黄色人種と分けて考えても、それぞれがすべて一つの種類とは限らない。また、国家と考えたとしても、それはあくまでも大まかに考えたところでの、
「国土に所属している人間」
という意味で、厳密に人種でもない。
では、人間というのは、動物で分けたところの何になるのか?
例えば、イヌであれば、イヌという種類が人間全体と考えれば、人種と呼ばれるものは、犬種としての、まず大きく分けて、放牧犬、使役犬、などのグループが人間でいうところの白人、黒人になるのであろう。さらに分かれるところの放牧兼犬であれば、シープドッグ、使役犬であれば、ピンシャー&シュナウザーなどの犬の種類に当たるところが人間の何に当たるかが曖昧なのである。
日本人や中国人などという国家に属さない、血族を意味するものなのか、それとも土着という意味での国籍に基づく種類なのかである。後者はあくまでも、戦争や国家の興亡によって絶えず変動するものなので、この場合からは考える必要はないのかも知れない。
だが、血族と言っても、純粋な種族の人間がどれほどいるかである。日本のように島国では、血が混じり合うことは少ないカモ知れないが、国家が陸続きのところは、隣国の人間と結婚することもできなくはない。さらに、民族が行きかうことで、血が交り合うことも多いだろう。
ただ、家畜やペットと呼ばれる動物では、人間の手によって、人間が扱いやすいように、別の犬の種類を交尾させることで、元々あったものではない新種の犬種などを作り出すことをしてきたので、人間が自ら別の種族と交わるのも、どこまで倫理的に許されるのか、何とも言えないところだった。
それこそ、宗教によって解釈が違っていたりするので、何とも言えないところであろう。
カタルシスという言葉が、
「精神を浄化する言葉」
ということで、カタルシス効果というのは、
「意識せず、我慢していたものを外に発散する」
という意味だと介してもいいだろう。
これはある意味、宗教でいうところの、戒律の反対の意味だと捉えることができるのではないだろうか。ただ、戒律の解放という意味ではないと解釈されるかも知れない。
「カタルシス効果というのは、実は催眠療法というのが、中心になるんだよ」
と先輩は言っていた。
その言葉を聞いて、弥生は別に表情を変えなかったが、つかさは自分の表情が変わったことを自覚した。
「高橋さんは、今露骨に嫌な顔をされましたね?」
と指摘され、見透かされてしまったことに恥じらいを感じた。
すると、先輩は話を続けて、
「いいんですよ。嫌な顔になるのも仕方のないことです。催眠術というのは、それだけ強力なものであり、洗脳などの怪しい感覚に近いものだと考えられてしまいますからね。でも、それは相手との信頼関係がなく、ほとんど催眠術を掛ける人間が、掛けられる人間に対して、何も知らない状態になった場合が怪しく思われるんですよ。元々催眠術というものは、治療などに使われるものが本質でしょうから、掛ける方と被験者とでは、それ相応の信頼関係がなければ、治療にはならないかも知れません。それが心理学という者であり、心理療法に繋がるものではないかと考えます」
と先輩に言われて、
「でも、カタルシス効果の実験は、信頼関係のある人に行うものなんですか?」
と聞くと、
「いいえ、だから実験なんです。それを公開でやるというのは、不謹慎な気もしますが、催眠を掛ける人は学生ではなく。この大学出身の精神科医の先生なんです。そういう意味で実績のある人であり、我々が、浄化という意味で真面目に心理学や心理療法を考えていると話をすると、分かっていただけました。先生はそういう意味では信頼できる人なんです」
ということであった。
「なるほど、分かりました。もし時間があれば、伺うことも考えてみましょう」
とつかさはあくまでも曖昧に答えた。
確かに興味はあるが、胡散臭さが抜けたわけではない。sの日までに自分がどこまで解釈できるか分からないが、宗教や怪しい団体ではない大学サークルだということを念頭において考えてみることにした。
つかさは、自分と先輩の話の中で、絶えず自分の世界の中に入り込んで、いろいろ想像を巡らせていた。その間、弥生が何を考えていたのか、そこまでの発想はなかったと言ってもいい。弥生の方も敢えて何も言わなかったが、後から思うと、弥生が何を考えていたのかが、気になって仕方がなかった。
かといって、直接聞いてみるだけの勇気があるわけでもない。
ましてや、弥生の性格から考えて。自分からいうということはないだろう。それはつかさのように、「勇気」という概念が最初に来るからではなく。
「別に言わなくてもいいことを、自分から相手に暴露して、自分の手の内を明かすわけにもいかない」
という少し冷静な目になっているのではないかと思っていた。
そもそも、つかさの方も、相手と話をしている時、相手の話を、
「怪しさありき」
で考えていたのだから、どちらがマシだとかいう発想としては、
「何かが違うのではないかと考えた」
つかさは、弥生に聞いてみた。
「どうする? あのサークルに入ってみる気になった?」
と聞くと、
「私は入る気はないわ」
というではないか。
「どうして?」
と聞くと、
「冷静になって考えると、入部という選択肢がなかっただけなの」
という漠然とした答えが返ってきたのだ。
――この人はどこまでも冷静なんだろう?
と思ったが、冷静であるだけに、その言葉に重みは感じるが、言っている内容には説得力がなかった。だから、人には胡散臭く思わせるのだが、友達としてのつかさには、説得力のなさを浮き彫りにさせられたのだった。
つかさは、自分の浪人時代を思い出していた。今から思えば、自由だったはずなのに、自由が利かないという意識と、まわりに対しての自虐性の強さが大きかったように思えていた。
つまりは、自虐することと、自由がないという制約を自分に課すことで、置かれた環境を正当化し、すべてまわりが自分に課した試練のようなものとして解釈することが、いわゆる、
「浄化作用に繋がっているのではないか?」
と思わせるようにしていたと思った。
自分の中で、表に出さずに、
「カタルシス効果」
を自己完結で行っていたことで、何とかその時期を乗り越えることができたのだと思っている。
この考えが自分だけのものなのかは分からないが、他の人にも同じ考えがあるのだとすれば、浄化作用としても、
「カタルシス効果」
にも、一定の理解ができるのではないかと思うのだった。
この「カタルシス効果」という言葉に興味を持ったのは、弥生も同じだったようだ。彼女も図書館でよく心理学のコーナーに立ち寄っているようで、フロイトの本などを読んだりしているようだ。
「なかなか難しくて、簡単には理解できない」
と言っていたが、つかさも実際に読んでみると、そう簡単に理解できるものではないようだった。
そんな時、つかさは、フロイトの話をした時、気になることを言っていた。