短編集122(過去作品)
しかし逆に、イライラが募ってくる。自分だけが男に対して文句があるわけではないのに、誰も反応しないということは、きっと何かがあっても、誰も助けてくれないことを意味していた。
急に怖くなってきたが、さすがに振り上げた鉈を下ろすことはできなかった。それだけ精神的にイライラしていたのだろう。ここまで来れば意地もある。
男の顔を見ていたとしても、身続けることはなかった。さすがにそこまでの勇気がなかったからだが、そのうちに男がこちらを凝視し始めた。
ヘビに睨まれたカエルとはこのことだろう。身動きが取れなくなった。
――今度目が合えば目を逸らすことができなくなりそうだ――
それは分かっていた。なるべく目を合わさないようにしなければいけない。
相手の男は大男でもなければ、頑強な肉体を持っているわけでもない。小柄で痩せ型、ちょこまかと動きそうな雰囲気がある軽い男にしか見えなかった。
だからこそ、最初に威喝してみたのだが、実際にこちらをじっと見ている視線を感じると恐ろしくなってくる。人からじっと睨まれたことはなく、しかもモラルのかけらもないような得体の知れない男に睨まれているのだから、思わずビビッたとしても仕方がないことだ。
しかし、ここで引き下がってしまっては、相手に隙を見せてしまう。学校の歴史の時間に先生から習ったばかりだった。
「殿というのを知っているかい?」
「しんがりですか?」
「殿というのは、相手を目の前にして撤退しなければならなくなった時、例えば、相手に援軍が来たりして、こちらが犬死してしまうのが分かることが、戦国時代には結構あったんだ。どんなに強い戦国大名でもね。でも、そんな時に味方の撤退を助けるために、追ってくる敵を撃退しながら最後尾で逃げる手助けをするのが殿というんだ。これは攻めるよりも難しい。何しろ、自分たちがやられてしまったら、大将が逃げることができないんだからな」
ということらしい。
最初、意味が分からなかったが、
「将棋だってそうさ。最初に並べた布陣が一番隙のない布陣で、動くたびに陣形が崩れていく。無理な体勢をしようとすると、どうしてもそこにはしわ寄せがくるものさ」
と言われて何となく納得した。将棋はあまり指すわけではないが、確かに最初の布陣には何かがあるように思える。攻めるも逃げるも、攻撃に変わりはないのだろう。
目の前でタバコを吸っている人は、いつも電車が近づけばそのまま後ろの草むらにポイ捨てする。
――いつ、火事になるか分からないのにな。誰も気にならないのか――
と、タバコを捨てる本人もさることながら、見て見ぬふりをしている連中も同罪ではないかと思うことがある。それはもちろん自分も同じで、そんな自分に一番腹が立ってくる。
自分に腹が立つと自分でなくなることもある。常軌を逸した行動を取ってしまうこともあるくらいだ。
自分を客観的に見ることが多い私は、その多くが自分に対して苛立っている時である。自分を許せない時もあるが、逆に苛立っている自分を冷静に見ることで、苛立ちを抑える役目もしている。その時の私も客観的に見ていた気がしたのだが、抑えることはできなかった。むしろ客観的に見ているはずの自分が、
「後悔してもいいのか?」
と悪魔のささやきとも言える言葉を浴びせたように思えたからだ。
相手はこちらを一瞥したかと思うと、一瞬ニヤッと笑った。そこから先はいつものようにホームから線路を背に、ホームの後ろにある草むらに向ってタバコを吹かしている。
電車が来るには、まだ五分くらい時間がある。捨てるにはまだ早いようだ。
――あっ、捨てた――
意に反してタバコは放り投げられた。どうやら、もう一本を手にしているようだ。
私の怒りは頂点に達していた。もう、止めることはできない。もう一人の冷静な自分でさえ、さすがに、
――やばい――
と感じたことだろう。自分が陽動したにも関わらず、鬼気迫る雰囲気に危険を感じたに違いない。
だが、もう誰にも抑えることはできなかった。本人でさえ、自分の行動が常軌を逸していることに気付かない。何かに操られるように前に歩いていくだけだ。
「ここでタバコを吸っちゃダメですよ」
言葉は穏やかだが、奥歯を噛み締めていたことには違いないだろう。
それを聞いた男は、最初狐につままれたような顔をしたが、それは一瞬で、すぐに顔が笑ったかと思うと、それも一瞬だった。
見る見るうちに男の顔が真っ赤になっていき、
「おい、なんだお前、何様のつもりだ」
目をカッと見開いて私の胸ぐらを掴んだ。
その力は強く、そのまま首吊りのような状態で宙に浮いてしまうのではないかと思えて、それだけで恐ろしさが湧き上がってきた。
真っ赤な顔はまさに鬼気迫っていて、まるでアルコールに酔っているかのようで、先ほどまで小柄でせわしいタイプの男だと思っていたが、実際に面と向うと、顔が大きく見えてくる。
震える手には怒りだけがこみ上げているように見える。自分も怒りに任せて注意したが、それでも理性があってか、言葉が穏やかだったが、表情にだけ怒りが滲み出ていた。中途半端な状態が、却って男に火をつける結果になったのかも知れない。
――中途半端な状態で、相手の怒りを呼び起こすようなことをしてはいけないんだ――
これは後になって気付いたことだが、まさしくその通りである。
男は何も言わずに私の両足を地に着かせた。男は息を切らしている。息遣いは完全に荒くなっている。それは私も同じだった。その光景はまわりから見ていると実に異様な雰囲気だったに違いない。
「お前、一体何が言いたいんだ」
男は目を充血させてこちらを見上げる。鬼気迫る表情には変わりはないが、幾分落ち着きを取り戻しているようだ。だが、その顔には最初になかった凄みが感じられる。
そこでやめておけばいいのに、世間を知らない中学生は落ち着いている男に追い討ちをかけた。
「ここは、禁煙ですよ」
ここまで言うと、男の眉間にしわが寄った。
――やばい――
今度は、先ほどよりも恐ろしい気持ちになっていた。
声は確実に震えていた。勇気を振り絞って何とか声を出したというのが真実だが、勇気など振り絞らなければよかったと後悔すらした。しかし、ここで一言言わねば、自分のプライドはズタズタになり、言ってしまった後の後悔とどちらが自分にしこりを残すか、自分でも分からなかった。
男も若干震えている。顔は相変わらず真っ赤で、汗も額から滲んでいる。先ほどまで小さな人人だと思っていたのが、顔が真っ赤になっていくにしたがって、逞しくも大きな男性に思えてくるから不思議だった。それはあたかも、自分の中の不安感がそうさせているのかも知れない。
男の震えが怒りから来ているものであることは分かっていた。しかし、明らかに非は向こうにあるのだ。それをこちらが指摘しただけである。
だが、考えてみれば、間違いを指摘された時、恥ずかしいという気持ちと同時にプライドを傷つけられ、しかも公衆の面前であれば、
――恥を掻かされた――
という思いが最高潮になる。
作品名:短編集122(過去作品) 作家名:森本晃次