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短編集122(過去作品)

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正義感



                正義感


 心地よい春の風が通り過ぎる昼間に比べて、まだ朝晩は少し冷たさの残る頃だった。
 学校はまだ春休みで、通勤電車にはサラリーマンの姿しかなかった。
 中学二年生の頃だったが、成長期の真っ只中、反抗期でもあり、何か気に食わないことがあれば、誰かれともなく当たりたくなってしまう時期でもあった。
 しかし、正義感だけには燃えていた。それも自分の中にある正義にである。他の人から見て偏屈に見えるかも知れないが、こだわりのようなものがあったのかも知れない。それは今も変わっていないが、自分としてはあまり得な性格ではないと思っている。
 今から十数年前になるから、ちょうど駅構内がすべて禁煙になり、喫煙場所が限られた頃だった。電車も各駅停車はすべて禁煙で、灰皿も撤去され、特急電車の中で禁煙車両と喫煙車両が別れているくらいだった。
 今とどちらがマナーがよかったかと言われると、答えようがない。今は電車の中でも平気で携帯電話で通話している人がいるが、その頃にはまだ携帯電話の普及はなかった。喫煙に関して言えば、最近は道を歩いていてもくわえタバコをしている人の姿を見なくなった。マナーがよくなったというべきか、場所によっては、くわえタバコが条例違反になる場合もある。
「そのうちタバコを吸えるのは、プライベートな部屋しかなくなるかも知れないな」
 と言っていた人がいたが、もっともである。
 今でも喫茶店や呑み屋などは喫煙・禁煙を明確に分けていないところもあるが、ここ五、六年くらい前から流行り始めたカフェでは喫煙と禁煙を分けている。喫煙者は、オープンカフェのような表でしかタバコを吸えなくなってしまっている。
 パチンコ屋も郊外型の店は、喫煙席と禁煙席とがあるようだ。確かにずっとその場所を離れることなく打ち続けていれば禁煙者にとってタバコの煙は毒以外の何者でもない。
 タバコの煙に耐えながらの人生も、最近は快適な空気に包まれ始めた。それだけに、一人でもマナーの悪い人がいれば目立つし、まわりから白い目で見られる。
 白い目で見られた人は、たまらないと感じるのかタバコを公然では吸わなくなる。すると、マナーの悪い人が少しずつ減ってくる。
 あくまでも理想だが、理想を抱くことで現実に近づいてくれば、成果が現れたことが現実味を帯びてくる。今はすべての面において、いい環境になりつつあるのだろう。
 だが、私が中学生の頃はそうでもなかった。まだまだマナーを守らない大人が多かった。
「勝手にルールを決めやがって」
 喫煙者からすれば、そんな意見も出てくるだろう。タバコを吸う人間は吸わない人間の気持ちは分からないし、吸わない人間も所詮は吸う人の気持ちが分からない。
 以前はタバコを吸っている人が我が者顔で、歩いていたのを、何とか嫌煙権を求めようという団体があったことだけは分かっていた。
「団体があっても、なかなかタバコ社会だから、言い分は通らないよね」
「そうですよね、考えてみれば会社で上司だとか偉い人は必ずタバコを吸っていますものね」
 という会話を聞いていて、子供心に、
「やはり難しいだろうな」
 と思っていたことが現実になってくると驚きを隠せなかった。
 だが、実際に嫌煙権が市民権を得ると、今度はタバコを吸っている人が肩身の狭い思いをするようになる。
 元々タバコを吸っている人への嫌悪は、タバコの煙への嫌悪だけではなかった。ポイ捨てや、歩きながら手にタバコを持っていると、すれ違いに人にやけどを負わせてしまう可能性があることに気付いていないからだ。
 気付いているのかも知れないが、それでもしているとすれば確信犯で、それこそ許せることではない。
 一時期、急にタバコを吸う人が肩身の狭い方に追いやられるのを見ていて、可愛そうなくらいの時期があったが、そんな時に限って、マナーの悪いやつがのさばるものだった。
 吸ってはいけない場所で堂々と吸っている。誰も注意しないことをいいことに吸っているのだ。
 まわりは誰も吸っていない。自分だけが目立っていることは分かっているはずだと思うのにやめようとしない。
 中には露骨に嫌な顔をしている人もいるが、決してお互いに目を合わせようとはしない。どちらの人間も不思議な感じだ。
 露骨な行動をしていてお互いに目を合わせないということは、お互いに相手への嫌がらせを考えているくせに、どこかに後ろめたさを感じるのである。それは、誰に対しても同じことなのかも知れないが、少なくとも、マナー違反の人間は、その人のために善良な喫煙者までもが白い目で見られていることに気付いているわけはないだろう。
 その日は特に風が強かった。その人はいつも同じ場所でタバコを吸っているのだが、風の影響で煙がモロに私の方に向ってくる。
 嫌な顔一つしてみたい。相手もこちらに気付いたようだ。いつも嫌な顔をしていてもこちらの存在に気付かないのでは面白くもない。その日は幸いというべきか相手がこちらの存在に気付いたこともあって、露骨に睨みつけてやった。
 最初は相手もふてくされたような態度を取っていた。私もまわりにはたくさん人がいて、彼らもタバコの煙にウンザリしていることは分かっていたので、強い味方がまわりにいるという安心感が強かったに違いない。
 それに中学生である。まだまだ子供が勇気を持って露骨に抗議をしているのだから、大人が黙っているはずはないとタカをくくっていた。しかし、まわりはまったくの無反応。さすがにあっけに取られてしまって脱力感すら感じてしまっていた。
 大人が自分のことしか考えていないと思うようになったのはその時からだ。
「自分のことしか考えない大人が多すぎる」
 と友達が言っていたが、確かにそうだと思いながらも、心の中では、
「そんなこともないだろう」
 と半分否定していたが、その時はさすがに、多すぎるを通り越して、
「皆がそうなんだ」
 と思うようになってしまっていた。
 考えてみれば、目の前でタバコを吸っているようなやつが元凶なのである。マナーを守って喫煙している人が大多数のはずなのに、この男の態度だけで、タバコを吸わない人は皆、
「タバコを吸う人って、皆ああなんだ」
 と思うに違いない。たった一人のために他の大勢が犠牲になるのは、理不尽である。
 きっとまわりにいる大人の中には喫煙者もいるに違いない。心の中で、
「こいつのせいで、俺たちが白い目で見られて、おかげで、タバコが吸える場所がどんどんなくなってくるんだ」
 と思っているはずだ。
 私が喫煙者でもそう思う。思って当然だし、思わなければいけないと感じる。しかし、思うだけで、誰も行動に移すこともなく、顔にすら出すことをしない。嘆かわしいことである。
「ふふっ、いつの間にか喫煙者の肩を持ってるじゃないか」
 と思わず吹き出しそうになった。思わず我に返りまわりを見るが、誰も私の表情の変化に気付く人もいない。あまりの反応のなさに、自分だけが感情的になっているのがバカバカしくなった。
作品名:短編集122(過去作品) 作家名:森本晃次