短編集122(過去作品)
と口には出さなかったが頭を傾げていた。それをやる気のない態度と取ったのだろう。
「そんなことでは立派な大人になれませんよ」
教育ママにはお似合いのセリフである。だが、
「立派な大人って何なんだ?」
子供心に疑問を抱いたものだった。
それでも小学生の四年生の頃になると、勉強が好きになった。ちょっとしたきっかけなのだろうが、それが何だったのか覚えていない。ただ、算数を好きになった。解き方はどうでもいいが、答えがあっていて、プロセスに間違いがなければ、それでいいという考えが気に入ったのだ。
一つのことがうまく回転すると、他のこともうまくいくもので、あまり女の子のことなど気にしていなかったはずの私に、気になる女の子ができたのだ。
もっとも異性を気にする年齢でもなかったので、
――妹のような可愛い女の子だ――
というくらいにしか思っていなかった。テレビのアニメなどで、可愛い女の子が出てくると、気になってしまうのに、どうして実際にまわりにいる女の子が気にならないか不思議だった。今から思えば、おねえさんに対しての憧れのようなものだったに違いない。
その子は、いつも私のそばにいた。その子の存在に気付く前から、ずっといたように思う。もちろん、後から考えるからなのかも知れないが、気になっていたように思うのは、紛れもないことだった。
いつも大人しい子で、女の子の友達と話をしているところはおろか、誰かと話をしているところも見たことがない。
よくよく考えると、自分もそうだった。彼女は、
――女版の私――
といえるだろう。
何か惹かれるところがあったのか、彼女のことが気になり始めると、彼女にだけは饒舌になった。それまでほとんど誰とも会話などしていなかったのだから饒舌と言っても知れている。どんな話をしていたのかすら忘れているくらいなので、大したことではないだろう。
だが、私の話を笑顔で聞いてくれた。
――彼女の笑顔を見たことが他にいるだろうか――
その思いが強かった。友達と話すこともない彼女は、どこか話しかけても、会話が風のように通り過ぎていくように思えてならない。
しかし、二人だけでいると、それまで一人がよかったイメージがさらに膨れ上がってくる。彼女と一緒にいない時はいつも一人なので、その時も自分にとって大切な時間の一つになった。
次第に一人でいる時に彼女のことを考えるようになる。テレビを見ていても、授業を受けている時でも楽しい気分になってくるのだ。それは、皆とつるんでいる連中が、一人になったり授業を受けている時と感覚が違う。彼らはきっと授業中の自分は普段の自分と違うのが分かっていて、
「早く終わってくれないかな」
苦痛の時を過ごしているに違いない。
しかし、授業時間というのは実にうまくできているもので、それ以上の時間、堅苦しく席に座って授業を受けていると、身体に異変を感じるやつも出てくるのではないだろうか。私もまわりの人と話をするようになった中学に上がって授業を受けていると、
「これ以上はきついぞ」
と感じた時に終業のベルが鳴り、
「助かった」
ホッと息をついていたものだ。勉強が好きだったのは小学生の頃までで、中学に入って算数が数学になると嫌になった。
他の科目を好きになったりしたが、数学は好きになれなかった。公式に当てはめるというところが、型に嵌められるのを嫌だと思う私らしいところではないか。中学になって好きになったのは歴史で、時代の流れに人の考えが絡むところが好きだった。
彼女の名前は確か直子、素直な直子だった。性格も素直で、実直だったと思う。もっとも、他の女の子を表からしか見ていないので何とも言えないが、他の女の子ばかりを見ていると、直子が光って見えるから不思議だった。
賑やかな女の子が男にも見えていた。男の子が女の子のようにつるんでいるからそんな風に見えるのかも知れないが、一人でいて絵になる人は男も女も好きだった。
だからといって直子が男っぽいというわけではない。むしろおしとやかで静かな感じは、大人の女性を思わせる。
小学校の頃には女の先生もいて、唯一大人の女性をかんじるのは、女の先生だった。
母親や、友達のお母さんたちは、どう見てもおばさんにしか見えない。特に授業参観の時など、何がよくて和服にするのか不思議だった。
そんな中で、直子の母親だけは洋服だった。それもビジネススーツのような出で立ちで、スリムに見える。実際にスリムなのだろうが、それを思うと和服は、体型をごまかすことができる。
――そうか、それで皆和服なんだ――
そう思うと、決して太っていない人まで太って見えてくる。
「あれじゃあ、却って墓穴を掘ってるようなものじゃないか」
と思えてならない。
直子の家に行くのが楽しみになった。
直子と一緒にいるのも楽しいが、母親が時々お菓子を持ってきてくれたりした時にかんじる大人の女性の雰囲気が好きだった。
子供同士でいるところへ親が入ってくると、子供は嫌がるものである。私もそうだった。特に自分の母親は、すぐに部屋に入ってこようとする。
私はあまり母親を綺麗だとも色っぽいとも思わないが、友達の中には、
「お前のお母さん、綺麗だな」
あるいは、
「お前のお母さん、グラマーだよな。大人の女って感じがする」
などと言われると、何と言ってリアクションを返せばいいのか分からない。それよりも自分の母親をまるでいやらしいものでも見るような目で見られるのは心外だった。何しろ自分は、その母親から生まれたからである。
「お前たちは自分の母親をそんな目で見られたら、どんな気がする?」
と聞いてやりたいが、たぶん皆黙り込んでしまうに違いない。
だが、そんな私が直この母親に対してだけは違っていた。
――涼しげなそよ風を感じたい――
というのが本音だが、何を言っても、私自身が自分の母親を変な目で見られるのを嫌がっているのだから、いい訳にはならない。
本当はいい訳などしたくない性格である。いい訳するくらいなら、黙っている方がいい。
「どうして黙っているの。何とかおっしゃい」
と言われるが、何を言ったらいいというのだ。下手に何かを言えば、
「いい訳ばかりして、あなたは屁理屈ばかりこねるのね」
と言われるのがオチである。
ちょっとしたことですぐに怒る母親だった。それも父親の威厳が影響している。
「お父さんに怒られるわよ」
と言うのが、母親の常套文句であった。お父さんの名前を口にすれば何とかなると思っているところが嫌らしい。お父さんは確かに威厳があるが、威厳を後ろ盾に、自分の威厳を保とうとする姿勢は、見ていて気持ちのいいものではない。そういう姿勢は余計に目立つというものだ。
直子の母親にいやらしさを感じるわけではない。しいて言えば、妖艶さであろう。まさか子供の私がそんな言葉も雰囲気も知るわけはないが、一つだけ分かっていたのは、表に滲み出る雰囲気に匂いを感じるか感じないかである。同じ匂いでもしつこさのない匂い。それが妖艶さを引き立てる。
作品名:短編集122(過去作品) 作家名:森本晃次