短編集122(過去作品)
「そう言われてしまえば、何も言い返せないね。事実そうだったから。でも、下手に騒ぎを起こしてもまわりは所詮他人事で、誰も勇気を持って立ち向かった人を助けたりはしないだろうね。結局皆自分の身が可愛いんだよね」
おじさんは少しそこで話を切った。一度落ち着きたいのだろう。
ちょうど、ウェイトレスがコーヒーを持ってきた。
「お待たせしました」
人と一緒だとコーヒーの香りが今までに比べて香ばしさを感じさせた。相手の人が大人だと思っているからかも知れないが、
「さあどうぞ。遠慮なく飲んでください」
と勧められて口にしたが、確かに苦さは感じられたが、今まで嫌だと思っていた苦さではない。大人の味というイメージを最初に持つと、それほど嫌なものでもない。
――食わず嫌いだったのかな――
子供の頃に苦手だったもので、高校になってから食べれるようになったものも今までにいくつかあった。それもやはり食わず嫌いだったのだ。
大人になってから、
「高校の頃までコーヒーが飲めなくてね」
という話を何人かから聞いた。まだ私の場合は高校時代の途中までだったので、マシだったのかも知れない。
「大学に入ると、サークル勧誘だったり、サークルに入っても先輩が驕ってくれたりする時に、コーヒーが飲めませんなんて恥ずかしくて言えないから、最初は我慢してでも飲もうと思っていたら、いつの間にか飲めるようになっていたよ」
「きっと、先輩に面と向っていたので、緊張感が苦味を抑えてくれて、味を感じないくらいにしてくれたのかも知れないね。コーヒーは味がなくとも、香りで飲めるから、そういう意味で味がなくともおいしく感じられるものがあるとすればコーヒーくらいかも知れないな」
そんな会話をしていたものだ。
コーヒーを飲みながらおじさんの話を聞いていると、どうやらあの時、おじさんは私に子供の頃の自分を見たのではないだろうか。そう考えれば私を助けてくれた辻褄が合う。
朝の通勤時間で、勤務時間外だったこともあるから警察の人間だとは言わなかったが、確かにおじさんの雰囲気は喫茶店で顔を突き合わせて話をしている雰囲気とはかなり違っていた。
「おじさんは人助けがしたくて警察に入ったの?」
「そうかも知れないね。でも、警察に入ってから勤務中には何を思って警察に入ったかなどまったく忘れているね。テレビドラマで見る刑事さんのように熱血でもないし、どちらかというと、市民の皆さんの警護というある意味現場の仕事だね。あまり凶悪な事件にぶち当たったことはないけど、もし凶悪事件が起こったらどうしようかというのは頭の中に描いてはいるよ」
頭の中に描いていても、実際にその時になってみないと、人間は分からない。それだけに警察の人たちは、いつ何があってもいいように訓練を重ねていると思っている。だが、おじさんを見ていると、そのことを感じさせないのだから大したものだ。本当に平和ボケされているのであれば困ったものだけれども。
さすがにそれ以上のことは聞けなかった。だが、警察というのも公務員。自分たちの管轄意識が強いというのもサスペンスを見ていて分かることだ。
「おじさんは田舎出身なんだよ。田舎の人が都会に憧れて出てくるというパターンが多いけど、おじさんもその一人だね」
コーヒーを口に運んでそこまで言うと、一息溜息をついた。
「おじさんの田舎はどこなんですか?」
「今はもうないんだ。実はダムの底に沈んでしまったんだよ。そういう村って、最近は少なくなったけど、おじさんが子供の頃には結構あったものだよ。都会に人口が増えてくると、どうしても水の問題が大きくなってくる。山間の適当な場所にダムを作るというのは、どうしても避けられないことだったからね」
確かに今ではダムを建設するために、土地を追われるという人の話はあまり聞くことはない。だが、昔には頻繁だっただろう。過疎の村と、都心部集中が招いた悲劇である。
小学校の社会科の授業で、確かそういう集落があったということを教わった。あまり意識していなかったように思っていたが、おじさんから改めて聞くと、小学生なりに感銘を深めたのを思い出した。
しかし、所詮は他人事、その時は同情してみたり、
――もし、自分がその立場ならどうしよう――
と思ったものだ。同情したとしても、自分に置き換えても想像の域を出るわけもなく、次第に意識が遠のいていく。最後にはそんな思いになったことすら忘れてしまっているのだ。
ダムには、小学生の頃、父親がドライブで連れて行ってくれた。そのダムかどうか分からないが、ダムの近くには公園ができていて、釣堀があったり、フィールドアスレチックがあったりと、大人も子供も楽しめるゾーンができていた。
――公園化してしまっているダムの底に村があるなんて――
確かに考えてみれば、それもありうることだ。そういえば公園の奥に、祠のようなものが建っていたのを思い出した。まるで豊穣を祈っているような赤い幟とともに、祠に続く小さな道に大人の背丈よりも少しだけ高くなっている程度の小さな鳥居がたくさん並んで鳥居の道を作っていた。
その鳥居も真っ赤で、とにかく目立つように建てられていた。しかし、それは公園から遠いところにあり、知っている人か、ちょっとまわりを散策でもしてみようと思輪ない限り、見つけることは難しいだろう。
ダムがあって、公園があって、他に何もないところである。祠の意味が何もない。忘れ去られてしまっていても仕方がないところなのだろうが、まわりが森に囲まれているにも関わらず、鳥居の道にはほとんどハッパは落ちていない。祠にいけば、ろうそくに線香が焚かれていて、明らかに毎日誰かが定期的に清掃やお祈りをしているに違いない。
ダムの近くに民家はほとんどない。あったとしても、集落といえるほどではないだろう。きっとダムが水の底に沈んでも、この土地から離れられない老人がいて、その人が毎日祠の供養を行っているに違いない。
――生活費は、子供たちからの仕送りでまかなっているのかも知れないな――
などと余計なことを考えてしまう。
しかし、一人くらいそういう人がいてもいいだろう。当然ダム建設にともなって立ち退きの際には、国や自治体から、それ相当の立ち退き料が出ているであろう。本来なら都会へ移ってもいいのだろうが、その人だけは、移る自分を許すことができなかったんだろう。夢見も悪いだろうし、祠を大切にしているということは、土地の氏神を信じていたような昔で言えば長老のような人だったのかも知れない。
――どんな人なんだろう――
見てみたい気はしたが、こちらも家族と来ている身、そう長いこと滞在しているわけにも行かない。後ろ髪を引かれる思いで、ダムを後にした。
「だいぶ、あの祠に興味があったみたいだな」
帰りに車の中で父親から言われたが、
「うん」
としか答えられなかった。その祠が一体どういう主旨のものなのか興味はあっても、それが分かったところで、もう二度と来る場所ではないという予感があったからだ。
実際にあれからそのダムには行っていない。
ダムに行ったのは、ただ観光地に行く途中、
作品名:短編集122(過去作品) 作家名:森本晃次