動機と目的
養護学校出身でありがなら、
「数十年に一度の天才」
と言われ、世間が注目し始めると、兄の立場は、まったく変わってしまっていた。
どこで育ったのかなどという問題は関係なく、、高校を卒業するとその実力は一気の開花し、押しも押されぬ、エリートコースまっしぐらであった。
それでも中にはそんな彼に嫉妬する輩もいて、彼の育ちを理由に攻撃してきたが、逆に攻撃する側に対して世間の目は、
「何てちっちゃな連中なんだ、まるで自分たちが無能だということを自らで宣伝しているようなものじゃないか」
とさえ言われるようになっていた。
兄の実力は誰からも認められるものであり、そんな兄を尊敬している人もたくさんいただろう。目指す目標と崇められていたのである。
それまでは、どうしても育ちが邪魔をして、いくら成績がよくても、主席でなければなれないことであっても、次席がなっていたという理不尽な思いをしてきただけに、
「俺は一生。こんな運命なんだ」
として、ナンバーツーに甘んじなければいけない運命を受け入れていた。
しかし、社会に出るとそんなものは関係なかった。
「実力第一主義」
学歴が関係する場合はあったが、育った環境に関してはあまり関係はなかった。むしろハングリー精神は、上司から好まれるというもので、彼は実力を正しく評価してもらい、会社での地位も確実なものにしていった。
前述のように、今の会社に引き抜かれた時も、前の会社とは円満な契約解除であったことで、晴れて副所長として勤務することができるようになったのだ。
妹の方は、兄妹でそもそも頭がよかったのか、成績の優秀で、この会社に入ってきた。すぐに所長に気に入られて、今のような秘書兼助手をするようになったのだが、彼女の場合は兄のように分かりやすい、
「天才肌」
ではなかった。
確かに頭は切れて優秀なのだが、それよりも彼女の魅力は、
「相手に合わせることができる」
ということだった。
高校を卒業してから短大に進んだ時は、兄に引き取られる格好で一緒に住んでいたが、やはりどうしてもぎこちなさが抜けず、短大を卒業する頃には、お互い一人暮らしになった。
生活費は、アルバイトをしながらであったが、兄からもいくらか援助を受けていた。すでに会社での実力を認められ、給料も動機の連中から比べれば破格のものを貰っていた。
一人暮らしをしていれば、どうせ使い道なんかわかるわけもないということで妹のために使うことはまったくもって問題ではなかった。むしろ喜ばしいことだとまで思っていたのだった。
兄にとって、妹を見る目は、完全に両親の目だった。子供の頃に不慮の事故で両親を一度に亡くしてしまった二人の兄妹は、こうやって大人になってきたのだった。
短大を卒業すると、兄の勧めもあって、オオワダグループに入社したが、中には、
「兄の七光り」
という声もあったが、その声を秒殺で抹消できるほどの実力を、彼女は有していたのだった。
会社に入ってしばらくは、仕事に集中していた。まわりの人間とは、仕事の面ではコミュニ―ケーションを取ることができるが、それ以外のプライベートなところではまったく関係することはなかった。
「一緒に呑みにいかない?」
と同僚から誘われても、
「いえ、私は」
と言って、いつも断っていた。
断る理由は何もなく、ただ、毎回同じ答えだったことで、すぐに誰も誘わなくなっていた。
「あの娘は、孤独が好きなのよ」
と、まわりの人、百人に訊けば、百人からこの言葉が返ってくると思えるほど、ある意味分かりやすい女性だったのだ。
会社に入社してからは、兄妹はあまり接触がなかった。後から入った社員は、二人が兄妹だとしると、
「えーっ? 信じられない」
という驚きの声を挙げるに違いないほど、二人は知らない人から見て、接点もなく、遠い存在に思えたのだった。
すっと一緒にいる人にはその感覚はなく、逆に、
「あまり仲が良くないんじゃないか」
と思われていたようだ。
それは、二人の生い立ちを知らないので、表に現れた状況だけを見てそう思うからで。逆にその視線は正解に近いのではないだろうか。
そんな妹が、誰とも接点がないが、あるとすれば所長だけと思われていた波多野千晶がなぜ、課長である阿佐ヶ谷と一緒に殺されなければいけなかったのか。もしこれが心中であれば、心情的なものは分からないものの、状況からは、
「不倫の清算」
なのではないかと思えるのだが、そうでもないと皆が思っていた。
秘書で助手の千晶は、普段はつんけんした様子なので、よくは分からないが、表情を少しでも豊かにすれば、きっと綺麗な女性として男性が放っておかないのではないかというのは、女性の目の共通した意見であった。
それに引き換え、阿佐ヶ谷課長というのは、仕事上でも、
「上にはゴマをすり、下には厳しい」
という典型的な嫌味な上司で、誰からも慕われるようなことのない男性で、上層部からもそのことは見抜かれているようで、重要な仕事を阿佐ヶ谷に回すことはなかった。
オオワダコーポレーションのように、実力第一主義の会社が、なぜ阿佐ヶ谷のような男に課長の座を用意していたのか、一つの疑問であった。
「これじゃあ、ただの年功序列じゃないか」
とまわりは誹謗していたが、まんざらその気持ちも分からないでもなかった。
そんな阿佐ヶ谷と、波多野千晶はどんな関係があったというのか?
このあたりが、この事件の謎を解くカギになるという、謎であると、辰巳は思っていた。何しろ誰に訊いても、二人の接点はどこからも出てこない。千晶が不倫をしていたという事実はおろか。ウワサすらないのだった。
この辰巳刑事の勘はある程度当たっていた。そういう意味でも、まずは兄である波多野副所長の行方を探るのが、捜査の第一歩であったのだ。
「波多野さんは一体どこに行ったというんだ?」
清武所長もずっと考えていて、案外と自分が副所長である波多野氏のことを知らないということに驚いていた。
同じように、秘書であり助手でもある千晶のことを、さらに知らなかったことを感じていたのだ。
「本当にどうしてこんなにも知らなかったことに気づかなかったのだろう?」
とまるで懺悔にも似た思いを清武は感じていたのだ。
清武は、他の社員に比べて二人のことは知っていた。千晶は他の社員とはあまり話もしないし、ましてや自分の身の上のことを話すなどありえないことであったが。ある日、清武と話をすると、
「自分は清武が相手であれば、他の人とは違って大いに話をすることができるんだ」
と思っていたのだ。
それだけ普段から寂しいと思っていたということであろうが、それだけではないような気がした。
清武と話をしていると、最初は、
「いろいろなことが吸収できて、勉強になる」
という程度にしか思っていなかったのだが、途中から、
「それだけではなく、もっと奥深いところで話ができる気がする」
と感じ始めたのだ。
それが、他の人には話せないようなことを、所長であれば、何でも話せる気がしてくるという感覚だったのだ。