短編集121(過去作品)
と感じる。何もなくなってしまうとは思えなかったからだ。肉体がなくなっただけで、魂はそばにいると思うから悲しくないのだと考えるのが自然ではないだろうか。
通夜の席でも皆明るかった。
「明るく騒いで故人を送り出してあげるんだよ」
親戚の人はそう言って、故人の思い出話をしながら、酒を呑んでいた。よく聞いてみると、自分の知らない話がポンポ飛び出してくる。
母親の小さかった頃の話。もちろん、正二郎は知るはずもない。いつも冷静で子供のことを考えていると思っていた母親。そんな母親の子供の頃の話など、想像もつかなかった。
年齢というものは絶対に縮まることはない。縮まるとすれば、死んだ時だけである。そんな縁起でもないことを想像するはずもなく、まわりの人の話を興味津々に聞いていた。
母親の名前は美代子という。
「美代子は、結構親に逆らってばかりの娘だったよ」
母親の父親、つまりおじいさんの話だった。聞き手は正二郎の父親で、娘婿に話をしているわけである。
「そうだったんですか? 私はてっきりお嬢様のように育てられたのかと思っていましたよ」
「落ち着いてきたのは、高校生になってからかな? それまでは、よく学校の先生に家内が呼び出されていたものだ」
おじいさんの言う「家内」であるおばあさんはすでにこの世の人ではなかった。正二郎がまだ小さかった頃に病気で亡くなっている。葬儀にも出席したんだろうが、なぜか記憶がほとんどない。
「そうなんですね。美代子は良識があって、落ち着いていましたからね」
と父親がいうと、
「そういえば、美代子の記憶力だけは、ずば抜けたものがあったね。それだけは先生も家内も認めていたよ」
おじいさんがしみじみと話している。記憶を紐解いているとでもいうのだろうか、それでも楽しそうなのは、故人にとっていい話だからである。
正二郎も記憶力に自信があった時期を思い出していた。
――覚えようという気がなくとも、頭に残ってしまうんだよな――
一人ごちていた。
何が大切で、何が大切ではないかということをしっかり認識できているから覚えなければいけないことや、覚えたいことが自然と分かって、無意識に記憶しているのだと思っていた。
「でも、なぜか二十歳になる頃には、その記憶力が急に低下したらしいんだ。二十歳過ぎればただの人って言って、自分で笑っていたけどね」
おじいさんは苦笑いをしていた。
しかし、正二郎には分かっていた。母親にしては記憶力の低下はもどかしかったに違いない。少なくとも自分に自信が持てることの一つがなくなったのである。もどかしさが残らないわけがない。もちろん、その気持ちは正二郎にも同じだった。何とかしなければならないと思ったほどだ。
だが、そう簡単にどうにかできるものではない。どこかで開き直るしかない。思うに母親の性格が変わったのは、そのあたりからではないだろうか。
今から思えば注意を受けていたことは実に正論である。母親として、保護者としては至極当然な注意をしていただけなのに、反抗期だったために、煩わしさだけが残っていた。
母親は多趣味だった。
料理や手芸などが得意で、きっと手先が器用だったのだろう。町内のサークルにも頻繁に参加していて、それが近所付き合いに繋がり、印象はかなりよかっただろう。
奥様連中の中でも才能は目立っていたに違いない。控えめで目立ちたがり屋ではない母親だからこそ、妬まれることもなく、うまく行っていたのだ。才能があって目立ちたがりな性格だと、奥様連中の中では浮いた存在になってしまわないとも限らない。なぜか正二郎には奥様連中の雰囲気が想像できるのだった。
それも、母親が死んでから想像できるようになった。奥様連中のことだけではない。今まで知らなかったり、興味のなかった世界への想像が、自分の中で許すようになっていた。それが本当に想像通りかどうか分からないはずなのに、かなりの高い確率で間違いないと思っていたのも一つの自信であろうか。
母親が死んだことで、どこかに行ってしまうであろう魂が、
「自分の身体に宿っているのではないか」
と思うようになった正二郎だった。
時々虫の知らせのようなものを感じる。あるいはデジャブーと言ってもいいだろうか。
初めて来たはずなのに、どこか記憶があるのだ。それも記憶力の鋭かった頃ではなく、記憶力の低下に底が見えてきた時だった。
特に危険を知らせる場合が多かった。
信号を渡ろうとして、青から黄色に変わったのを見て、隣の歩道橋を使ったことがあったが、その時に渡っていた人に向って暴走車が突っ込んでくるのを歩道橋の上からちょうど目撃したのである。
「あのままタイミングが合って、信号を渡っていたらどうなっていたか」
特に高いところからだと、どれほどのスピードで突っ込んできているかが見えてくる。恐ろしいスピードに頭もクラクラ、腰を抜かさなかったのがビックリしたくらいである。
当然、虫の知らせを思った。
「本当に虫の知らせってあるんだ」
そう考えると浮かんできたのが母親の顔だった。その事件が起こったのは、母親の四十九日の法要が終わってすぐのことで、まだ、身体に線香の匂いが残っているのではないかと思うくらいの時であった。
その話は誰にもしていない。これからもするつもりはないのだが、きっと墓場まで秘密にしておこうと思っている数少ないことである。もし誰かに話したとしても、どうなるものではないと思っているが、虫の知らせを冒涜することは自分にとってよくないことだと思っているからだろう。
それからというもの、寝ていてかなしばりに遭うことが多くなった。
ちょうど記憶力の低下が深刻になり始めた頃のことで、寝ているとかなしばりに遭う瞬間を感じた。
それは足が攣った時に似ている。足が攣る時も寝ている時が多く、夢と現実の狭間で、
「足が攣る」
という意識が働くのだ。次の瞬間、夢から覚め、足が熱を持つとともに襲ってくる痛みに、身体が硬直してしまう。誰もいないのが幸いで、もし、そばに誰かいれば、気付かれることを嫌うだろう。ソッとしておいてもらえば、痛みは引いてくる。下手に騒がれると、余計に不安を煽られて、精神状態を正常に保てなくなる。裏を返せば、痛いのを我慢している時が、一番精神状態を正常に保てているのかも知れない。そういう意味では、足が攣るのも精神状態を正常に保たせるためで、悪いことではないのかも知れない。それが定期的に訪れるということは、元々狂い始めている精神状態の歯止めが身体から起こっていることになるのだ。
足が攣ることは、小さい頃からあった。だが、かなしばりは最近になってからである。母親が死んでからだったといってもいい。本当の時期がいつ頃が最初だったかと言われると自信がないが、間違いなく母親が死んでからである。
かなしばりに遭う時間もどうやら決まっているようだ。
かなしばりに痛みは伴わない。身体を動かそうと無理な体勢を取ると、後で身体に違和感が残るが、そうでもなければ、痛みは伴わない。足が攣った時など、強烈な痛みが治まっても、足に残った痛みはなかなか消えない。立って歩こうとするだけで痛くてたまらなくなるのだ。
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次