短編集121(過去作品)
足が攣った時は、なるべく歩けばいい。
これも自分独自に考えたもので、
「揉み解せばいいんだよ」
と人は言うが、結局同じことである。硬直してしまった筋肉を手を使うか、それとも自然な行動の中で治癒していくかの違いだけで、ほぐすという目的に違いはない。それがかなしばりとどういう関係なのかハッキリとは分からないが、まったく無関係には思えない。寝ている時に起こることは、潜在意識の成せる業だからである。
かなしばりを感じていると、寝ているのか起きているのか分からなくなる。寝ている時に、感じるのは足が攣る時で、目が覚める瞬間まで分かる。しかし、かなしばりは、遭っている時の意識は寝ているのか起きているのかが分からない。夢遊病のような感覚になるのではないだろうか。
足が攣ると、すぐに意識が現実に戻ってしまうのとは逆の発想である。
足が攣る時は、誰にも触れられたくないものだ。
「触らないで」
というとまた身体に緊張が走ってしまうので、なるべくなら誰にも気付かれたくない。しかも、痛みは一度ではなく、油断していると何度も痛みが襲ってくる。
眠っていて足が攣るという作用も同じであろう。油断から身体が伸びた時に、緊張が走るのである。学生時代に筋肉痛が起こった時、よく足が攣ったものだ。
かなしばりは痛みを伴わないが、意識も薄れてくる。
「幻覚を見ることがある」
と聞いたことがあったが、正二郎も同じだった。
初めてかなしばりに遭った時、
「これは夢なんだ」
と思った。本当に夢だったのかも知れない。
誰かが走り回っている。女の子のようだ。どうして女の子だと分かるのか自分でも不思議だったが、東北地方に伝わる伝説に出てくる「座敷わらし」がイメージされるのだ。
「座敷わらし」は悪い妖怪ではない。逆にいないと困る妖怪だ。
床の間にいると言われる「座敷わらし」は、おかっぱに着物を着た、まだ十歳にもなっていないくらいで、ちょうどこけしの雰囲気に似ている。
愛くるしい笑顔で愛嬌を振りまき、笑顔には子供ならではのあどけなさがある。
しかし、目は真っ黒でクリっとしていて、怖さを感じるとすればそこだけだろう。実際に見たことがないので何ともいえないが、見た人は腰を抜かしたに違いない。
ひとたびそれが座敷わらしだと分かると、今度は逃がしたくない。座敷わらしがいる家は繁栄する家で、いなくなると没落する。要するに繁栄をもたらす妖怪なのだ。
もちろん、東北の田舎町に伝わる話で、かやぶき屋根に囲炉裏端という雰囲気の家が多いところで、蔵があったり大きな庭や部屋がいくつもある家は富豪である。床の間は座敷わらしでなくとも、居心地がいいに違いない。
だが、座敷わらしはきまぐれで、一番繁栄をほしいままにしているところの家を簡単に見限ったりする。
「どうしてなんだ」
と言いたいだろう。座敷わらしには座敷わらしの考えがあるのか、それともそれが一番自然な流れなのか、世の中の摩訶不思議な現象をすべて妖怪のせいにしてしまえば、どれほど精神的に楽になるだろう。もちろん、没落をたどる人間には、座敷わらしの考えは非情に満ちたものでしかないだろうが。
そもそも根本的な疑問があった。
「座敷わらしって何人いるんだろう?」
これは妖怪すべてにおいてそうである。人間にも家族や仲間がいるように、一つの種類の妖怪が一匹だけとは考えにくい。妖怪自体、人間の作り出した妄想の類であるとすれば、疑問に感じないのも分からなくはないが、疑問に感じないということは、意外と誰もが存在自体を心底信じていないのかも知れない。
だからこそ研究する人が存在するのだ。彼らには一般に信じていない人たちとどれほど考え方が違うかという意識があるのだろうか。きっとあるに違いない。一匹見つければ、数匹はいるという気持ちになるからであろう。
正二郎は、妖怪変化の類はあまり信じていなかった。子供の頃から怖がりで、妖怪や化け物の話になると、耳を塞いでいたからだ。
「夜に一人でトイレに行けない」
そんな子供たちがたくさんいるだろうが、正二郎も同じだった。しかも他の子供たちと同じで、怖いくせにその手のテレビ番組は見てしまう。
「怖いもの見たさを勇気だと思い込んでいた子供の頃が懐かしい」
と笑って言えるのも、今ではそれほど怖いものへの意識がなかったからだ。
妖怪といっても、座敷わらしは怖くないと思っていた。実際に会ってみたいとも思っていたくらいなのだが、それがかなしばりに遭っている時というと訳が違う。身体が動かないのだから、相手が何であれ、何をされるか分からないと思うと恐ろしい。ある意味、一番怖いのは人間なのかも知れない。
人間が一番平気で人を裏切ったり、殺したりする。ニュース番組があれだけあって、時間をもてあますことがないほど凶悪事件が全国を賑わせている。人間を一番信じられないものだと思うのも無理のないことだ。
もちろん、正二郎が見ている夢に出てくる女の子が座敷わらしであるはずはない。津田家は、座敷わらしが出てくるほど裕福でもないし、座敷わらしであれば、かなしばりに遭うことはないだろう。
だが、恐ろしい妖怪の類にも思えない。それに座敷わらしであれば、黙って床の間に座っているはずだし、第一、津田家に床の間などない。
走り回っているのは元気な証拠で、まるで自分が子供時代に戻ったような気がする。
自分の子供時代には絶えず身体を動かしておかないと我慢できない時期があった。イベントにワクワクし、夜も眠れないくらいになっている。次の日が遠足というだけでワクワクして眠れなかった頃が懐かしい。
小学生の頃、家族でよく旅行に出かけたものだ。夏休みなど、母親に連れられて朝から出かけ、観光地を回って宿に着くと、後は父親の到着を待つだけだった。父親も夏休みといっても二日ほどしかなく、仕事が終わって駆けつけるのだ。一緒に夕食を食べる時間が一番の団欒なのだが、正二郎は、母親と一緒に昼間観光している時間の方が好きだった。
何よりも電車に乗るのが楽しみだったのだ。新幹線を利用することが多いので、新幹線に乗っていると、サラリーマンが一番気になっていた。
新聞を読んだり、雑誌を読んだりしながら、
「実に慣れたものだ」
堂々としている姿を見て、さすが大人だと思ったものだった。
それに比べて子供のはしゃぎようったらなかった。男の子の方がうるさく、男の子と女の子がいれば女の子は落ち着いたものである。
だが、子供連れでも女の子だけの時は、そうでもない。声を出して騒ぐことはないが、電車の中を走り回っている姿を見たことがあった。ほとんどの女の子は静かなのだろうが、一人賑やかな子がいると目立ってしまう。それが印象に残っているのだ。
正二郎がまだ小学四年生くらいの頃だったので、賑やかに騒ぐ子供の気持ちは自分のことのように分かる。だが、さすがにその子を見ると、騒いでいる理由が分からなかったのだ。
髪の毛を前でそろえて、おかっぱ頭にしていた。目がくりっとしているので、落ち着いて見えた。かなしばりに遭った時に感じた女の子のイメージは、まさしくその娘のイメージだった。
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次