短編集121(過去作品)
石段は石垣のようにキチッと設計されているわけではなく、大きな石や小さな石がバラバラに敷き詰められていて、歩きにくいったらない。だが、これも敵に攻められた時にわざと侵入しにくくしてるのだと思うと納得もできる。
足をくじかないようにしながらゆっくりと登っていく。その都度石段には気をつけながらである。
「これが有名な武者返しか」
上に行くほど急になっている。これでは下から石段を登るのは不可能に近いだろう。何しろ戦闘態勢で迫ってくるのである。鎧や武具を身につけていて、しかも手には槍や刀を持っているはずである。普通考えれば登るのは不可能であろう。
城壁の上にも緑が豊かである。戦国時代も今のように、森に囲まれていたのだろうか。
戦国時代のイメージ、それは歴史を習うことで頭に入ってきたのだが、それまで過去の時代というと、一定のイメージしかなかった。
農民がいて武士がいる。農民は武士に年貢を取られ、武士は戦に明け暮れる。そんなイメージが強かった。
それ以外は、まるで弥生時代の文化のイメージしかなかった。
そのイメージに海は出てこない。出てくるのは山であり、丘であった。山の中腹にある丘がイメージの対象であった。元々イメージの原点になったのは、小学生の頃に遠足で出かけた登山だった。
最初は岩場を登るところから始まるが、途中までくると、そこから先は森の中を抜けていくイメージで、森を抜けると丘を目指す広っぱに出てきた。そこにはすすきの穂が一面に揺れていた。風に揺れるすすきの穂は一定の法則に沿って靡いているように思えた。
それが過去の世界とリンクして感じるようになったのは、広っぱを抜けるとさらに奥にはまた森が広がっていて、森の奥には祠が立っていた。祠には幟が立てられていて、どうやら誰かを祭っているようだ。
後で先生に聞くと、
「かなり古い時代に、ある歴史上の人物が立てたものだよ」
と教えてくれたが、歴史を知らないので、結局誰のものだかは分からない。
だが、そのイメージが歴史の名の下に残っている。折りしも、テレビ番組で、馬に乗った鎧兜に身を包んだ武者が、すすきの穂が一面の広っぱを駆け抜けていくシーンがあった。
後から思えば、ロケ地自体が登山で出かけたあの場所だったのかも知れないとすら思えたほど酷似していた。
だが、普通であれば、そんなことは考えられない。もっと近場のロケ地を探すであろう。そう思えば、似たような光景の場所が、今もいろいろなところに現存しているとも言えるのだ。少々大きな山の中腹には、必ずすすきの穂が一面に広がっている場所が存在するのではないかとさえ思ったほどだった。
夢にも何度か出てきたことがある。
気がつけばすすきの穂が一面の場所で目が覚めた。まわりには誰もいない。
もし、誰かが近寄ってくるとすればどんな人間を想像しただろう。きっと鎧兜を見に纏って馬にまたがった武将ではないだろうか。そこで現代人が出てくれば、却って違和感がある。
武者が自分を見つける。その時の異様な雰囲気は、どこまで想像できるものであろうか。鎧兜が当然の時代に、身軽な現代人が現れれば、警戒心も薄らぐというもの。それよりも見たこともない人間に対し、言葉も出ずに、その場に立ち竦むだろう。立ちすくんだ後の行動はなかなか想像もつかないが、もし相手が一人であれば、味方を呼びに行くに違いない。
それが分かっているはずなのに、どうしてもその場所から動くことができない。
下手に動いて、どこからともなく何かが飛んでくるイメージが湧くからだ。まったく想定していなかったことに遭遇すると、動けなくなるのも人間の本性であろう。だが、その本性が自分を救ってくれたりするものだ。
やはり仲間を呼びに行ったようだ。だが、いくら相手が多勢であっても、この状況を理解できるものなどいるはずがない。何しろ夢の中のことだからである。もし、局面が動くとすれば、夢を見ている人の精神状態に変化が起きないと夢は進展しないものだ。
だが、精神状態の変化はやがて訪れる。それほど理解できない状況に身動きができなくなるほど精神的にタフではない。探りを入れるつもりで、少々動こうとする。動いてしまえば流れができて、運命は決まってしまうかも知れない。それでもいいと思うのは、心のどこかで、
「これは夢なんだ」
と思っているからに違いない。
音や色を夢の中で感じることができないと思っているので、鎧兜の軋む音や、馬のひづめの音などは、どこかで掻き消されようとしている。それがすすきの穂を揺らす風の音である。
風の強さや音を夢の中で感じさせるためのアイテムがすすきの穂である。夢の中という意味ではすすきの穂は重要な役割を持っていて、必然の状況を知らず知らずに作り出している。それが人間の人間たるゆえんではないだろうか。
その逆のイメージが、深い森の中である。
深い緑色の森のイメージも何度となく夢の中で見てきたものだ。
森が深ければ深いほど、緑は黒にも見えてくる。夢の中で色がないということは、モノクロ映画を見ているようなものである。黒が存在すれば、白も存在する。その時の白は、森の間から垣間見ることができる太陽だったりするものだ。
だが、すすきの穂の夢は単独であって、決して森の夢も一緒に見ることはできない。
「本当にそうなのだろうか」
と考えたことがあった。
夢というのは目が覚めてくる都度忘れていくものだ。完全に忘れてしまうこともあれば、覚えていることもある。覚えていることは
「それだけ印象が深かったのではないか」
と思っていたが、どうやらそれだけではないと最近考えるようになっていた。
夢の中ではワンシーンだけではないこともあるが、その時は突如場面が変わってしまっていることが多い。まったくつながりがない場面に遭遇しているという夢である。
目が覚めてから、そのすべては感じるものである。ということは、目が覚めるにしたがって忘れていく内容がそのたびごとに違っていると思うと、これらの疑問は一気に解決できるものではないだろうか。
バラバラに展開される夢を見たと思った時は、その時々の間の夢が記憶から欠落している。また、一つのシーンしか覚えていないのは、続きを覚えていないからではないだろうか。
怖い夢を見ている時は、恐怖が終わってよかったと思うし、逆に楽しい夢を見ている時は、
「ちょうどだったのに、残念だ」
と思うところで目が覚めている。それぞれに肝心なところから記憶が欠落しているのだ。
では、夢を見ていないと思って目覚める時はどうだろう?
忘れているだけで、本当は夢を見ていたのではないだろうか。そう思えば、寝ている時、夢を見なかったということは絶対にないのかも知れないという結論を導き出す学者もいるだろう。だが、ものがあくまでも夢という異次元世界に似たものだけに、証明は難しい。何しろ、一人一人で夢は違うのだから仕方がない。だが、学者によっては、
「夢の共有はありうる」
としている人もいる。いわゆる「シンクロニシティ」の世界である。
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次