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短編集121(過去作品)

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 大阪から近鉄奈良線に乗って出かけたのだが、向かう先は山を目指している。大阪と奈良の県境に位置している生駒山なのだが、山に近づけば、今度は麓の山間を縫うように列車が走った。
「どこまで行くのだろう?」
 と感じながら歩いていると、いきなりトンネルに入ってしまった。抜けた先はもう奈良県だった。
 奈良県に入ると、それまでの大阪府とはまったく違った趣きを感じたように思うのはなぜだろう。トンネルをくぐるだけで、その先が寒く感じられる。
「古都奈良に入ったんだ」
 という意識が強く、寺や神社の雰囲気が感じられた。
 大阪の空気の淀みから開放された気分にもなった。その代わり感じられるのが、線香の香りだった。
「爺臭いんだな」
 と言われそうだが、イメージとして残ったのだから仕方がない。
 熊本という土地は、奈良とはまったく違う趣きがある。奈良に比べればはるかに都会で、そのくせ、都心部に歴史遺産が点在している。
 しかも、おみやげものを見ていれば、そのほとんどが熊本城や加藤清正公ゆかりのものが多く、歴代の細川家に比べてもひけを取らないのが熊本である。
 加藤清正の加藤家は江戸時代に入って早々に、取り潰しの憂き目に合っている。関が原の合戦で徳川方に味方したと言っても、元々は豊臣秀吉恩顧の大名である。
 元々、関が原の合戦で徳川方に味方したのも、家康が秀頼を立ててくれているという気持ちが汲めたからである。
 だが、実際関が原の戦いの後、家康は豊臣家をないがしろにしてきた。征夷大将軍の位に就き、江戸に幕府を開いたのがその証拠である。
 清正が熊本に城を築き始めたのは、まさしく関が原の合戦の年であった。
 熊本城は難攻不落と言われ、攻める方はまたくの度返しで、守備には決定的に強固な造りになっている。それは清正が秀頼を守るための城として建設していたからだ。
 実際に、秀頼を匿う部屋まで作られていたという話で、今まさに再建されているところだという。
 家康が大阪城を落とすようなことがあれば、秀頼を密かに熊本まで逃がし、自分の生命を賭して、秀頼を守る決心だったことが伺える。
「武者返し」と呼ばれる石垣が聳える熊本城は、表からの兵の進入はきわめて困難だった。
 いくつもの逃げ道が隠されていたり、からくりなどもあったと言われるが、今どこまで分かっているかなど、興味深いところである。
 しかし、実際に熊本城が秀頼を迎えて、その力を遺憾なく発揮されることはなかった。大阪の陣で、豊臣家は淀君と一緒に滅び、大阪城も、焼失してしまう。歴史の流れを止めることはできなかったのだ。
 それ以来、徳川の世がやってくる。
 家康の跡を継いだ将軍たちは、家康の考えもあって、外様大名の取り潰しに掛かることになる。
 元々が豊臣恩顧の武将たちはその真っ先に槍玉に挙げられる。
「賤ヶ岳七本槍」で有名な加藤清正、福島正則などが取り潰された。しかも加藤家の場合は、原因不明ということで、謀略があったのは間違いのないことだろう。
 だが、そんな熊本城だが、その力が遺憾なく発揮される自体がやってくるのは、城が出来てから二百七十年ほど経った明治の時代に入ってからである。
 維新の元勲として名を馳せた薩摩の西郷隆盛。彼は日本に軍隊組織を作った祖でもある。彼をはじめとして江戸時代までの武士は、維新後、憂き目を見せられている。恩賞としての米の配給がなくなることと、廃刀令などを中心とした武士への風当たりの強さのため、彼らは中央政府に不満を持った。
 何とかしなければいけないと感じた西郷隆盛は、武士の不平不満をよそに退避させようと、「征韓論」を唱える。
 しかし、海外留学などの経験のある政治家は、日本の国力の低さを憂い、さらに近隣の国である清国が欧米列強によって植民地化され、民族の危機に陥っているのを目の当たりにしていると、まずは国力を強めるのが先だと考える。
 両者は真っ向からぶつかるが、結局征韓論は退けられ、西郷は野に下った。
 下った西郷を担ぎ出して、薩摩藩は反乱を起こす。
 西郷は自分の受けた仕打ちや、武士の生活を見るに見かねたのだろう。自分が作った軍隊を相手に戦わなければならないとは、何とも皮肉なことだろう。
 その西郷が薩摩を離れ、最初に攻めたのが熊本だった。
 当時、熊本鎮台が置かれ、熊本に攻め込んだ薩摩軍を迎え撃つために、彼らは熊本城に篭城した。
 彼らのがんばりと、清正公が作り上げた難攻不落の熊本城は、歴史を重ねてやっと本来の威力を発揮したのだ。
 篭城して耐えているうちに、味方である政府軍がやってくる。その思いは十分に伝わり、士気は大いに上がった。
 政府軍が九州に入った知らせを受けた薩摩軍は田原坂で政府軍を待ち受ける。ここに西南戦争最大の激戦がやってくるのだった。
 これは日本最後の内戦と言われる。最後にして壮大なドラマだったことだろう。熊本というところの魅力は「火の国」に表される情熱的なところに大きな要因があるに違いない。
 阿蘇山のイメージもあるが、熊本城のイメージはさらなるものがあった。日本でも有数の難攻不落な城であることは、今さら言わなくても分かっていることである。
 熊本に来たのは、その時が初めてだった。
「一度来たことがあるような気がするな」
 と感じたのは、馴染みのある土地に雰囲気が似ていたからだった。
 その土地には子供の頃によく出かけていた。親戚がいたからだが、今ではすっかり様変わりしているという。熊本に比べれば大都市で、比較にはならないかも知れないが、小沢にとって、最初に感じたイメージを払拭するのは、難しかった。
 その土地というのは、広島である。
 メインである玄関駅から、市内中心部までは少し掛かるところから広島のイメージがあった。
 駅近くを流れる川にもイメージを強め、都心部まで出るための路面電車に乗り込むと、すでに広島にいるのと錯覚してしまったようだ。
 ただ、広島ほど大きなビルが乱立しているわけでもなく、少し穏やかな雰囲気が漂っていた。曲がる角も多く、どこをどう走ってきたのか、気がつけば熊本城が見えてきていた。
 森の中に聳え立つ天守閣は、思ったより小さく見えた。まわりのビルが大きすぎるためなのか、それとも、森が生い茂っているせいなのか、最初に想像していたよりも小さくて少しがっかりしたのが第一印象だった。
 熊本城から市街地までの距離はほとんどなく、すべて歩いて回ることができるようだ。熊本城に近い停留所で降りると、入り口を探すこともなく、目の前にあった。
 中に入ると、公園のようになっている。何もないが、森に囲まれた城壁を見上げると、
「よくここまでうまく積み上げたものだ」
 と感心する。
 熊本城は完成までに七年費やしている。それだけしっかり設計されて建設されたに違いない。それにしても、ここまで綺麗な石垣を作るのだから、当時の建築技術の高さにはビックリである。もちろん、それは熊本城に限ったことではないが、城の大きさがそのまま権力の誇示に繋がるのだから、城を見ていると、当時の城主の力関係が分かってくるというものである。
 公園を抜けると、その先からいよいよ天守閣に向っての石段がある。
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次