短編集121(過去作品)
大学を卒業して初めて一人暮らしを始めたのも一つの原因かも知れない。一人暮らしに憧れてはいたが、いざ一人になってみると、一人の寂しさがこれほど身に沁みて感じられるものはなかった。そんな時に思い出すのが佳代子だったのだ。
どの場面が一番思い出に残ったのかというと、やはり最初の出会いだっただろうか。
テキストを間違えて持ってきてしまった利久に、偶然隣り合わせた佳代子がさりげなく見せてくれたのだ。
恐縮して、
「どうもありがとう」
というと、笑顔が返ってくる。横を向いて少し頭が後ろに傾き加減な笑顔は、爽やかさだけが引き立っていた。
爽やかさという言葉しか思い浮かばない。他にもいろいろな佳代子の表情を見たが、他に類のない笑顔は、何とも比較にならないものだった。
その時の表情は、それから以降見たことがない。だが、売り場で久しぶりに見かけた佳代子の表情はその時とまでは行かないが、懐かしさ以外の何者でもない表情は、実に気持ちを分かりやすくさせてくれる。
しかし、彼女のその表情の先には一人の男性がいた。
――そうだよな。彼女くらいになると、男が放っておかないよな――
数年経ってしまった思い出に浸れただけでもよしとしなければならないだろう。
「今の俺は仕事に燃えているんだからな」
とそのままやり過ごすつもりでいたが、その隣にいたのが、これまた大学時代の親友だった田坂であった。
「まさかあの二人」
そう思うと、いてもたってもいられず、飛び出していかなければならないどうしようもない気持ちになってしまっていた。
「いらっしゃいませ」
いつものような接客のつもりだったが、本当に声が出ていたのか自分でも分からなかった。隣にいる店員の女の子もキョトンとしていたに違いない。何しろ女の店員が接客をしている時、利久は出てくることをしなかったからだ。客と店員の間で出来上がっている雰囲気を男の自分が飛び出すことで台無しにしてしまいかねないからだ。これは利久だけに限ったことではなく、デパートマンのほとんどが心得ている暗黙の了解とでもいうのだろう。
「あっ」
最初に気付いたのは田坂だった。一瞬驚いた表情になったが、声は上ずっていて、楽しそうな表情に変わった。紛れもなく懐かしさに溢れた顔である。
その横にいる佳代子に視線を移すと、その表情は少しこわばっていた。まるで出会ったことが気まずいような表情である。バツの悪そうな雰囲気は学生時代に見たことがあっただろうか?
そういえば一度だけ見たことがあった。
あれは、サークル活動を終えて、部室から出てきた時だった。
利久はサッカーのサークルに入っていたが、佳代子はテニスサークルに所属していた。テニスサークルは、遊び感覚のサークルで、本当にテニスが好きで入部したのか分からないような連中も中にはいた。
女の子も同じで、むしろ女性の方がテニスというよりも合コンが多いからとか、他の大学のサークルとも交流があるので、男女ともナンパ目的の人が多かったのも否めない。
もちろん、佳代子にはそんな気持ちはなかっただろう。テニスが純粋に好きで、練習にも熱心に参加していた。
そんなある日、佳代子が飛び出してきた部室の奥から、もう一人男性部員が彼女を追いかけていく。見るからに無様な恰好であった。
男性部員はあまり見たことのない人で、利久を見るなり本当にバツが悪い表情になり、今度は睨みつけた。それでも利久がひるむことなく無表情でいると、べそを掻いたように口をへの字に曲げて、今にも泣き出しそうな表情で、部室の中に消えていく。
最初は何があったのか分からなかったが、よく考えてみれば男が佳代子に言い寄ったに違いない。それ以外は考えられなかった。
佳代子を追いかけて慰めてあげようかとも思ったが、何を言っていいのか分からない。適切な言葉を発することができないのであれば、ソッとしておいてあげるのが親切というものではないか。
そう思った利久は、後ろ髪を引かれる思いで、帰途についた。
しかし、しばらく後悔の念に苛まれていた。
「あの時、本当は声だけでも掛けてあげられたんじゃないか」
声を掛けていれば、その後の二人の展開が変わっていただろう。だが、そんなまるで火事場泥棒のようなことは利久にできるものではなかった。
だが、潔かったわりには、後悔の念が残っている。それは、男としての正義感に近いものがある。
「放置してしまったんだ」
苦しんでいる人を見ていて、いくら事情が分からないので、どう慰めていいのか分からないと言っても、目の前に気持ちの揺らぐ人を放っておくのは、男としての正義感に掻ける。
自分の中で、火事場泥棒のような姑息な気持ちが強いか、それとも男としての正義感が強いかを比べて、姑息な自分を否定する方が大きかったのだ。悪い言い方をすれば、
「自分のプライドのために、相手を犠牲にするという自分勝手な生き方だ」
と言われても仕方がないに違いない。
利久の脳裏に、その時のことがよみがえったのは、その時の佳代子のイメージが頭から離れないからである。
大学を卒業するまで、そのことは利久の胸の中だけに収めていた。話してしまえば恥じらいと羞恥の表情から涙を浮かべていた佳代子の表情が二度と頭から抜けることがないように思えたからだ。
売り場での再会、それは運命のような気がした。利久にとってもそうなのだが、佳代子にとってはもっとだったに違いない。だが、実際には田坂の身にも同じような運命がこの時から始まっていたということに、誰も気付かなかったに違いない。
田坂という男は、実に大らかな男だった。大らかといえば聞こえはいいが、どちらかというと大雑把なところがあり、時々人に迷惑を掛けることもあった。しかし、迷惑を掛けるといっても大したものではなく、笑い話で済まされる程度で、しかも、田坂自身は決して苦しむことはない。
「何と羨ましい性格なんだ」
そう思わずにはいられなかった。
「久しぶりだね」
戸惑っている佳代子を横目に、堂々としているのは田坂だけである。場所が自分の職場ということもあり、多少の戸惑いのある利久も、田坂の挨拶に一瞬たじろいでしまった。
「ああ、そうだね。卒業以来だから、三年ぶりくらいかな?」
「まだ、そんなものか。俺はもっと経っていると思ったけどな」
本当は三年という年月がなかなか経たなかったという思いが強かったので、
「やっと三年経った」
という思いが強かった。
会社に入ってすぐの研修期間、総務部長の訓示で、
「まずは三年をめどに頑張ってみることだ。三年頑張れば、先はおのずと見えてくるはずだからね」
と言っていた。その言葉がやたら頭に残っていて、三年という年月が頭から離れなかった。
三年経ってみて、確かに会社全体がおぼろげながら見えるようになっていて、業界の動向も同時に分かるようになった。だが、分かってきたのは会社を中心とした仕事関係のことばかりで、一般的な俗世間に関してはあまり分かっていなかったかも知れない。
そのせいもあってか、なかなか彼女ができない。
「欲しい欲しい」
作品名:短編集121(過去作品) 作家名:森本晃次