悪魔のオンナ
清水警部補くらいになると、自分が一歩でも後手に回ってしまうと、前に行くにはかなりの時間と再度の集中力が必要であるということが分かっているので、いろいろ考えさせられたのであった。
――それにしても、この勧善懲悪な熱血漢が、話に夢中にならないはずはないのに、よく他の人に気が回ったものだ――
として、この意外な事実に感心以上のものを感じていたのだった。
だが、辰巳刑事も清水警部補も、
――どうして長谷川巡査がこんな話を始めたのだろう?
ということや、
――女将さんが、なぜ自分たちと違うリアクションを示していたのか?
ということでは共通していた。
話に夢中になっていた清水警部補ではあったが、女将を気にしているのは、辰巳刑事と違った意味であり、それは彼女に好意を寄せている立場での気にしている感覚だった。だから辰巳刑事とは違い、無意識に近いものだった。だから、辰巳刑事のように、女将に対して違和感を感じていなかったのだろう。
その場において、清水警部補は、次第にいつもの自分に戻りつつあるということを意識していたのだ。
この時には分からな方が、長谷川巡査に対して、辰巳刑事の感じたことと、清水警部補が感じていたこととでは、違った発想を持っていた。
しかし、違ってはいるのだが、この事件に大いに関係のあることではあった。だが、この事件というのは、
「三橋という男が昨夜殺害された」
ということに直接関係があるかと言われると疑問であった。
そういう意味では、長谷川巡査の存在は、
「却って事件をややこしくした」
と言えるかも知れない。
だが、女将と長谷川巡査の間で、何かお互いに共通の思いがあることに清水刑事は気付いていた。それが何なのか、まったく想像はつかなかったが、この時点のこれだけの情報で分かるはずもなく、捜査を三橋への殺害事件に絞ってしまうと、分かるものも分からないかも知れなかった。
長谷川巡査は、故意にそういう行動をとっていたのかも知れない。相手は、辰巳刑事、清水警部補、門倉本部長という、百戦錬磨の相手である。下手なことではすぐに勘繰られてしまう。
「うまく立ち回って、この三人をそれぞれに利用するくらいのことでもなければ難しいかもな」
と、長谷川巡査は考えていた。
長谷川巡査としては、
「ひょっとすると、三橋という男の殺害事件というのは、思っているよりも簡単なのかも知れない」
と、さえ思っていた。
ただ、今はまだ事件が発生してからすぐなので、情報があまりにも乏しいことで、犯人が絞れないどころか、犯人を絞るための人間関係すら分かっていないではないか、そちらの方の捜査は山崎刑事の方で行っている。
確か殺された三橋は、会社で不倫をしていたという話ではなかったか。奥さんも分かっているかのようだし、そのあたりから胡散臭い感覚がプンプンする、意外と、単純な事件なのかも知れない。
ただ、長谷川巡査とすれば、殺された三橋がいたことは、
「余計なことを」
という感じが否めないわけでもない。
本当はこの店に入ってきた時にしていた長谷川巡査の今まで誰も見たことのないようなあの難しい顔は、どこかやり切れない気持ちが含まれていた。
本当は普段からそんな気持ちを抱いているのかも知れないが、それを表に出さないようにしていたのだとすれば、彼自信が百戦錬磨の海千山千なのかも知れない。
先ほどの、
「卑怯なコウモリの話」
一体誰にしたかったのだろう?
直接話しかけたのはお美紀ちゃんなので、お美紀ちゃんに言いたかったのは間違いないのだろうが、それ以外に誰かいたとすれば、長谷川巡査は、
「お美紀ちゃんには鳥だといい、もう一人の伝えたい相手には。自分は獣だという意味で話をしていたのかも知れない」
と辰巳刑事は感じた。
人に対して同じ話をしていても、直接している相手と、その人に訊かせたいのだが、聞かされているということを他人に感じさせたくないと思っている時、そんな時こそ、
「二つの勢力の中をうまく立ち回っているコウモリのようではないか」
と言えるのではないだろうか。
そう思うと、やはり言いたかった相手は女将しか考えられない。長谷川巡査と女将の間、そして長谷川巡査とお美紀ちゃんの間に何があるというのか、辰巳刑事は考えていた。
清水刑事の方は、今度の三橋の事件と、今の長谷川巡査の話の間に、何かのヒントがあるのではないかと思っている。その時に感じたのが、
「長谷川巡査は、自分が相手に対して味方だと思わせることで、状況を一変させて、自分たちの都合のいい方に引きこもうとしている。しかし、だからと言って、長谷川巡査や、女将、あるいはお美紀ちゃんの私利私欲によるものではない」
という思いがあった。
そこに、表裏比興の者と評された、戦国大名である真田昌幸を思い出したのだった。
清水警部補にしても、辰巳刑事にしても、長谷川巡査がこの時にわざと皆に聴かせるようにした、
「卑怯なコウモリ」
の話は、誰のためにするという意味とは別に、関係者が一堂に介しているこのタイミングが一番よかったのであり、このタイミングしかなかったということで、このタイミングを神様が作ったのだとすれば、長谷川巡査はこの時ばかりは、神様を信じていたに違いない。
三橋を殺した人
その日は、それ以降詳しい話はなかった。本当は最初に聴くつもりで行った一番の目的である、殺された三橋という男の写真を見せたところ、女将もお美紀ちゃんも、声を揃えて、
「前によく来られていたお客さんで、そこに座っているのをよく見かけた気がしていました。いつも一人で来られていて、いつも難しい顔をされているんですよ。どうもそこに座る人は、結構難しい顔されている人が多いようで、最近はよく昨日のお客さんがよくそこに座られていましたね」
と女将がいうと、今度はお美紀ちゃんが思い出したように、口を挟んだ。
「あ、いいですか?」
というお美紀ちゃんに辰巳刑事が、
「はい、どうぞ」
と、話を振ってあげると、
「そのお客様がですね。この間、殺されたという三橋さんのことだと思うんだけど、前にこの席によく座っていた人、最近は来ないようだね?」
と聞かれたことがあったんですが、
「ええ、お客さんはその人と顔見知りなんですか? と聞いてみると、いや、自分はその人の部下だと言っていたんですよ。確かに一見老けて見えましたけど、年齢的にはまだ二十代だったんではないかと思ったんです。そういえば、三橋さんという人もまだ三十代前半だったんでしょう? 見た目は中年男性という雰囲気だったので、あの人の会社の人というのは、皆老けて見えるのかって思ったほどだったんですよ」
と、お美紀ちゃんは言った。
その話を訊きながら、長谷川巡査の表情が少し歪んできたのを感じた。ひょっとすると歯を食いしばっていたのかも知れない。
――長谷川巡査は、何にそんなに憤っているんだろう?
それに気づいた辰巳刑事はそう感じていた。