悪魔のオンナ
――今別れるのが、一番時期としては、ちょうどいいのかも知れないな――
と感じたのだ。
それから気持ちが女将に向くまでには少し時間が掛かったが、気持ちを抑えさえしなければ、もっと前から意識できていたはずだと感じていた。
女将さんの方もそんな清水警部補の気持ちが分かったのか、ちょうどその頃、
「弟のようだ」
と感じられるようになっていたのであろう。
赤提灯を横目に暖簾をよけながら店の中に入ると、
「いらっしゃい」
という声が聞こえてきた。
いつものようにカウンター席は、奥を別にして、真ん中には誰も客はいなかったが、最初に、
「あっ」
と言って声を挙げたのは、辰巳刑事であった。
カウンターの奥に鎮座している人に見覚えがあったからだ。
門倉本部長も、清水警部補にもよく見るとそれが誰だか分かった、しかし、普段とはあまりにも違った佇まいに、辰巳刑事が声を挙げた瞬間であっても、すぐには誰か分からず、そこにいることの意外性すら気付かないほどだった。
「長谷川巡査じゃないか?」
と、辰巳刑事が懐かしそうに笑みを浮かべたが、いつものような笑顔は長谷川巡査からは見られなかった。
別に見つかってしまったことを後悔している様子も見えない。かと言って、いつものように警部補や刑事に対して、恐縮している様子はない。
もっとも、プライベートなのだから、別に上司に気を遣う必要はないのだろうが、普段の公務上での長谷川巡査とはまったく違った面持ちに、辰巳刑事はビックリしていた。
門倉本部長も清水警部補もビックリはしているのだろうが、それを表に出そうとはしない。
驚きを表に出してしまうと、せっかくの長谷川巡査の普段と違う態度がかすんでしまいそうに思えたので、敢えて長谷川巡査に合わせることにしたのだ。
辰巳刑事も、後ろに控えている上司二人の気持ちが分かったのか、あまり、長谷川巡査に関わることをしなくなった。
「同じ職場で知っている人が呑みに来ている」
というだけの関係に戻るだけのことだったのだ。
長谷川巡査は、挨拶だけはしたが、それ以上、一切余計なことを話すことはなかった。一人手酌でチビリチビリ、普段の腰の低さを知っているだけに、貫禄すら感じさせるその佇まいは、
「なるほど、奥の席にはああいう人がやはり似合うんだ」
とばかりに、清水警部補は感じていた。
「久しぶりだね、女将」
おっと、長谷川巡査にばかり気を取られているわけにはいかない。
今日の主役は、門倉本部長と、女将のお節さんではなかったか。
「ええ、そうですわね。何年振りかしら? 栄転おめでとうございますという言葉も言えないくらいに、そそくさと行っておしまいになられたですもんね」
と、女将は皮肉たっぷりの言葉を門倉本部長にぶつけた。
「それは、申し訳なかったね。でも、あの時は結構挨拶もできないところが多かったくらい、慌ただしかったんだ。それは分かってほしいね」
というと、女将はやっと笑顔を門倉本部長に向けた。
門倉本部長も安心したように微笑むと、二人にしか分からない空気がその場を支配していた。
さすがに清水警部補も嫉妬しないわけにはいかなかった。だが、清水警部補には嫉妬を表に出すことはできなかった。彼女をその気にさせておきながら、自分で思い切ることのできない、
「ヘタレ」
を感じている清水警部補は、二人の様子を黙って見ているしかなかった。
二人の空気が流れている時、女将は清水警部補を見ることはなかった。あくまでも門倉本部長にだけ意識を向けていて、どちらが、その意識を切るかというのが、目下の緊張した状況であった。
最初に緊張を切ったのは、女将の方だった。それもそうであろう。最初にロックオンしたのは門倉警部補だったので、来ることの主導権は、女将の方に移ったのだ。これが二人が親密な関係にあったという証拠でもあり、親密なままに別れを迎えるという中途半端な状態だったものを、ここにきて、本当に切るとするならば、その主導権は女将にあるということは、清水警部補にも分かっていた。
その状況に一番安心したのは清水警部補だった。
――やっと、切れてくれた――
という思いを抱いたのは、自分が女将に対して煮え切らない気持ちになった原因が、まら切れていなかった二人にあるということを、この時に知ったからだった。
――やっぱり、今回門倉本部長が自分からこの店を訪れたと言ったのは、この関係を断ち切るのが目的だったに違いない――
と感じたのだ。
二人の会話はきっと、これで終わったのだろう。数年間という期間を一気に飛び越して今に現れたのは、お互いに想像していた相手を見つけたからではないだろうか、清水警部補はそんな二人は、きっと自分が知らない二人なのだろうと思うことで、自分が好きになった女将を別の人だという認識になりたいのだと感じていた。
それは、清水警部補の言い訳であり、言い訳を言い訳として感じてくれない目の前の二人は、
――やっぱり、自分の知っている二人ではないんだ――
と感じたのだった。
清水警部補には二人が会っていなかった間に、自分が入り込んでしまったという罪悪感があった。
しかも、女将に対しては、寂しさを埋めるという一種の卑怯な手段を用いているように思えたのだ。
だが、女将にとって、門倉本部長は、
「別の存在」
だった。
普通であれば、そんな感情を知ってしまうと、嫉妬に狂うくらいになるのだろうが、なぜかそうは思わなかった。
きっと女将に対しても、
「別の存在」
という認識でいるからなのかも知れない。
まったく別次元だということを考えると、少し気が楽になったが、次にまた別の感情が頭にあった。
「別次元というのは、女将と門倉本部長のことなのだろうか?」
という思いであった。
「本当の別次元は自分と女将であって、女将と門倉本部長はリアルな関係だったのかも知れない」
と思うと、自分が、女将に対して最後の決断ができない理由がそこにあるのではないかと思うのだった。
「清水さんと一緒にいると、何もかも忘れられる気がするの」
と言っていた。
それを違和感なく聞いていたが、今思い出すと、おかしいのではないだろうか。
「嫌なことを忘れられる」
ではなく、
「何もかも忘れられる」
というのである。
つまりは、忘れられることはすべてであり、リアルな現実逃避なのではないだろうか。現実を見ていて、さらにそこから逃げる気持ちになる、何が現実で何が逃避したいことなのか、あの時の女将には分かっていたのだろうか?
何もかも忘れるなど、ありえることではない。もちろん、女将であればそんなことは分かっているはずだ、何よりも今考えて当たり前のように違和感を感じていることを、まったくその時は違和感などなかったというのも、おかしなものである。
それを、
「反現実的で、中途半端な世界に自分がいたからだ」
と感じるのは、考え方の矛盾に値しないだろうか?
清水警部補は、いろいろと考えてしまう。
清水警部補が今見ている女将と、門倉本部長が見ている女将とでは、別の人なのかも知れない。そんな思いを清水警部補は感じているが、