短編集120(過去作品)
すると、彼はその時、香織の求めを断った。香織は精一杯の虚勢を張って電話をした。なるべく元気だと思わせたかった。だが、彼は本当に香織が元気だと思ったのか、その日は会ってはくれなかった。後から聞いた話では、同僚との呑み会を優先したのだという。
普段であれば、それくらいは寛大な気持ちになれる香織だったが、その日は許せないとまで思った。これが運命だとすれば、皮肉なものだと思った香織である。
そんな彼と別れたのは、彼の態度に見切りをつけたからだ。
初めての人の死。それに立ち会った時、香織は夕日が恨めしかった。それまでは、疲れを癒してくれ、疲れを感じている時も、心地よかった。
食欲をそそるのも夕日だった。小学生の頃、学校からの帰り道、近くの家から香ってくるハンバーグの匂いが食欲をそそった。そんな夕日が今でも好きだった。
だが、その夕日を初めて恨めしいと思った。後から考えれば、
「夕日を恨むだけ自分が損をするんだ」
と思うが、その日に限って真っ赤だった夕日は恨めしさに値するものだった。
やるせない気持ちのはけ口を求められた夕日も溜まったものではない。恨みは損となって帰ってきたとしても、それは自業自得だ。天に向かって矢を射る「バベルの塔」で有名なニムロデ王を想像させる。
やるせなさは誰でもいいからそばにいてほしいという気持ちに繋がった。早速彼に電話すると、
「いいよ、一緒に呑みに行こう」
と返事が返る。嬉しくなった香織は、その瞬間だけ幸せな気持ちになれた。
彼が来るまでのドキドキ感は、今までの待ち合わせよりもはるかに大きなものだった。彼の顔を見て安心したいという気持ちが強かったのだろう。実際に彼が現れて顔を見た瞬間に、飛びつきたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
彼はその日香織に何があったか知らない。普通の待ち合わせと思ってきただろう。普段どおりに接してくれることが香織にはささやかな嬉しさだった。その瞬間だけ普段の幸せを感じることができるからだ。
しかし、彼は聡い方で、彼女の変化に気付いていた。なるべく気を遣いながら話をしてくれていたが、気を遣うことが却って香織の神経を敏感にする。
ちょっとしたことで怒り出しそうな雰囲気に見えたのだろうか。お互いに会話が途絶えてしまった。会話が途絶えればどうしていいのか分からず、彼も困っているようだった。
その日は、結局普通に呑んで別れた。彼が、
「部屋の前まで送っていこう」
と言ってくれたが、
「いいのよ。少し風に当たりたい」
と答えると、
「そうか」
と言って、彼は踵を返した。男性から見ればこんな時は下手に腫れ物に触るようなことはしたくないと思うもので、無理のないものであろう。しかし、香織には何かが物足りなかった。
しばらく彼との連絡は途絶えた。香織もそれなりに忙しく、彼も忙しいようだった。だが、お互いに避けているのは歴然で、連絡がないのをいいことに、相手からの返事を待つだけの他力本願になっていた。
そんな日々が続くうちに、
「彼の存在って、なくてもいいんだ」
と思うようになると、何かスッキリとした気分になった。スッキリしてしまえば、もう未練などない。彼が何かを言ってきても、香織の決心は変わらなかった。
これは自然消滅になるのだろうか。どうせなら、それが一番いい。どちらが悪いというわけでもなく、喧嘩になったわけでもなく、一番わだかまりなく別れられると思ったからだ。
しかし、彼はそれからしばらく粘着になった。ストーカーまがいのこともあったが、さすがに付き合っていた人、誰にも相談できずにいると、本当に自然消滅してしまった。
それでもよかった。彼と中途半端に終わってしまったが、これが運命であれば、それも仕方がないことである。
人間は気持ちが変わるもので、変わってしまった気持ちを元に戻すことは容易ではない。そのことは人の死を目前にした香織だから分かるのだ。
「死んだ人は、もう戻ってこない」
自分の中で彼を抹殺してしまったことへの罪悪感はあるが、彼にとってもいいことではないかと思う。気持ちの離れた相手と一緒にいても時間も無駄で、せっかくなら、自分に合う人を探してもらうことが香織にとっても嬉しい。
「ストーカーのような行為がなければ、ずっと友達ではいられたかも知れないわ」
とも思うが、きっと彼にはその立場は耐えられないに違いない。香織が彼の本当の性格を把握したのは別れてからで、何とも皮肉なことである。しかし、恋愛というのは、得てしてそういうものではないだろうか。
「結婚していても別れる時は別れる」
香織は自分に言い聞かせた。
彼と別れてからしばらくは、彼氏がほしいとは思わなかった。あれから、人の死とも何度か対面し、そのつど自分が強くなっていくのが分かってきた。
だが、慣れたわけではない。慣れたということで自分を納得させることを香織は嫌った。人の死と真正面から向き合うことがこの仕事だと思ったからだ。
無性に寂しい時もある。男の人が恋しい時もある。身体が寂しがるのか、女としての本能が耐えられなくなる自分を哀れんでいる。
気がつけば三十歳になっていた。
まわりのナースの中には結婚して家庭に入った人もいる。一番仲がよかった人も結婚して、今は専業主婦である。
「最初はよかったんだけど、次第に辛くなるのよね」
と言っていたが、どういう意味か分からなかった。死ぬほど忙しかった時を知っているのだから、それから逃れられるのだから、その時に勝るとも劣らないことなどないはずである。
香織にとって、初めての男性が付き合っていた彼だったように、彼が自分を女としてキチンと扱ってくれたことが今では懐かしい。
仕事も慣れてはきたが、次第にマンネリ化してくるのを感じた。
仕事が大変なのは相変わらずだが、その相変わらずの中で、自分の成長が感じられないのが辛いのである。
「このままでいいのかしら?」
そんな風に考えると、一番仲がよかった人に会いたくなるのも無理のないことだ。
彼女の家の近くに、おいしいスイーツの店があるらしい。
「一度ご一緒してみたかったのよ。一人だとなかなか行きにくくて」
「でも、近所の奥さんたちと行けばいいんじゃないの?」
と言うと、
「えっ? まさか香織さんの口から出てくる言葉とは思えないわ」
と言われた。
「どういうこと?」
「口では説明しづらいので、会った時に話しましょう」
少し気になったが、会いに行くことにした。ちょうど夜勤明けの平日の昼下がり、彼女あ指定してきた。
昼下がりというと、眠気が襲ってくる時間帯だ。二十歳代の頃まではそれほどでもなかったが、さすがに三十歳を越えると、夜勤明けはきつい。
「今夜仕事でもあれば、倒れるかも知れない」
そんな風に感じていた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
眠いのを我慢して来ているのに、さすがに遅れて来られると拍子抜けしてしまう。
彼女の服は、いかにも主婦が好みそうな地味なものだった。ナース仲間でも一番オシャレには凝っていた彼女だったのに、一抹の寂しさを感じる。
「あなたが、まさか一番最初に結婚して主婦になるなんて、誰も予想していなかったわね」
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次