短編集120(過去作品)
身体だけは踵を返して、一刻も早くその場から立ち去りたいと思うのだが、目に焼きついてしまったものは、目を離すことができなくなってしまい、身体と目がアンバランスな状況を生む。脳に送られた信号は、すでに混乱していて、目からの信号が一番影響が強かったに違いない。だから、逃げられない状況に怯え、かなしばりに合ってしまったのだろう。
家族ですぐにおじさんの家に駆け込み、そこから警察を呼ぶことになった。
「フォンフォン」
と、平和で静かな村に鳴り響くパトカーとサイレンの音と、パトランプ。あまりみられることのない光景に、村人も表に出てきた。平和な村の間はあまり村人の顔を見ることもなく、
――本当に他に人が住んでいるのかな――
と思わせるほどだが、実際に出てきた人たちはかなりの人数だった。都会でも何かがないとなかなか見ることのない人だかりである。
いや、逆に都会の方が見ることのできないものだろう。マンション住まいの人の話を利いても、
「隣に誰が住んでいるか、分からない。顔も見たことがない」
という世帯がかなりあると聞く。マンションなどは、決まった時期に住民が掃除したりすることがあると聞いたことがあるが、それでも誰も出てこないらしい。友達の家族も最初の数回は参加したが、次第に誰も参加しないので、今では参加していないと白状していた。
香織の家は一軒家だが、やはり香織は隣の人のことをよく知らない。同じ年頃の友達でもいれば別なのだろうが、隣の人の子供はすでに学校を卒業して家を出ていた。小さい頃に学生服を来て通学しているお兄さんを見た記憶がある程度で、ほとんど話もしたことがなかった。
香織はそれからしばらく身体の痺れが取れなかった。身体がいつもよりも軽かったのだが、それも痺れのせいだったのかも知れない。
香織が見た光景、同じ光景をその日の夜に夢に見た。今度は、崖から誰かに突き落とされる夢だった。
男が誰だったのかということは子供の香織には教えられなかったが、夢の中で見た男は明らかに香織の知っている男性だった。
だが、その男性が誰だか分からない。見覚えがあっても誰だか分からないというのも気持ち悪いもので、よく見ると却って分からなくなってしまいそうだった。
「助けてくれ」
男が絶命する前の断末魔の声をあげている。夢だからこそ、
「この男性はこのまま死んでしまうんだ」
と分かる。助けてあげたいが、どうしていいのか分からない。これから死に行く人をただ見つめているだけしかできないもどかしさを、いくら夢の中とはいえ思い知らされるのは辛かった。しかもまだ小学生。
いや、小学生だからというものではない。それから何度となく同じ夢を見ただろう。そのたびに、
「どこかで見た光景だ」
と思い、夢の中であることを意識している。
人を助けられないもどかしさは、そのままトラウマとなって香織の中に残っていった。
最初にその夢を見てすぐに、
「ナースになりたい」
と思った。
憧れだけでなれるものではないことは、小学生でも分かっていた。だが、それしか、今の自分の中にあるトラウマから逃れることはできないと思い込んでいた。
幸い、成績は優秀だった。目標があるから成績もよかったのか、それとも、元々が優秀なのかは自分では分からなかったが、少なからず、学校の先生は応援してくれていた。
「お前ならきっとなれるさ。このままがんばって看護学校に進むんだぞ」
だが、高校に入ると、女の子の部分が顔を出し始める。甘えが出てくるというのか、遊びたい年頃なので仕方がない。何よりもクラスに好きな男の子ができてしまったのだからどうしようもなかった。
男の子と話をするなど、香織には信じられなかった。
成績がよく、まわりの女の子かも男子からも一目置かれていた。さすがに劣等生からは、
「勉強だけの頭でっかち」
のように思われていたようで、暗い女の子と言われていた。だが、他の大半の生徒からは、冷静沈着なイメージを持たれていたので、一部の人間の評価など、どうでもいいことだった。
だが、好きになった男の子が、どうやら劣等生グループと仲がいいというのを聞きつけた時、最初は悩んだ。そんな時に夢で小学生の頃に見た光景をまたしても見たのである。
もう少しでくじけそうになり、男性不信に陥る寸前まで行っていたところを水際で阻止できた。これも、
「私自身が、ナースになりたいという思いを強く持っているからだわ」
と自分を納得させた。青春といういくつものターニングポイントの狭間で、香織は自分の意志によるものなのか、そうではないのか分からないが、夢を見ることで我に返ることができた。
看護学校を卒業する時は、決して成績優秀というわけではなかったが、それも自分の中で、いろいろな葛藤に打ち勝ってきたからだと思うことで自分を納得させてきた。それは間違っているわけではない。青春時代の中で、いろいろ犠牲にしてきたものもあっただろう。その犠牲を割り切れるほど、香織は自分に自信があるわけではない。それでも何とか卒業できたことは、自分との戦いにおける勝利だと思うと、素直に卒業を祝ってくれる家族への笑顔は最高のものだったに違いない。
香織もそろそろ二十五歳。看護学校を卒業し、だいぶ病院にも慣れてきた頃だった。
忙しいのは毎日のことで、忙しさと、いくつもの人の「死」というものに向き合ってくることで、麻痺しかかっているものがあることに気付いていた。だが、それをどうすることもできないのは、まだまだナースという仕事に自覚が足りないからだと思うのだが、それだけではなく、反対に慣れというものが、自分に与える影響の大きさについて考えるようになったからかも知れない。
ナースになってすぐに、大きな病院への勤務だったこともあって、寮に入ることになった。初めての一人暮らしで、女子寮である。皆自分と同じような経験でナースを目指したわけではないと思っていたが、心意気や決意は変わらないと思っていた。だが、実際に話してみると、皆それぞれに目指すところが違っている。後から気付いたことだが、価値観の違いが一番大きかった。
そんな香織だったが、毎日の忙しさの中で少しずつ仕事を覚えていった。
初めて人の死に携わった時のことは、最初にナースになろうと決意した小学生時代の思い出とともに忘れることはないだろう。小学生の頃は、いろいろ多感だった女の子も、今は仕事の忙しさに振り回されている。あの頃に今のこんな自分が想像できたであろうか。
それでも、どこか現実的でクールな面を持った香織には想像できていたかも知れない。
忙しさの中、毎日に流されてしまいがちな生活をある意味楽しんでいる雰囲気もある。
「忙しさには忙しいなりに充実感がある。充実感は決して無駄なことではない」
という考えを持っているからだ。
忙しさは、人生の楽しみのほとんどを奪ってしまう。他の女の子たちが恋愛や遊びに現を抜かしているのを見て、羨ましがっている同僚もいるが、香織には信じられない。確かに一人になって考えると、
「一体、毎日何をやっているのだろう」
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次