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短編集120(過去作品)

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 というものだった。香織は釣りが嫌いではない。むしろ弟よりも好きであった。女の子なのにどちらかというと男勝りなところがあるのは、こういう家庭環境で育ったからかも知れない。
 釣りは泊りがけというわけには行かないので、叔父さんが漁師をしている漁村に行くことになった。そこは入り江になったところで、基本的には砂浜である。投げ釣りをするには格好の場所でもあった。
 朝早く、まだ夜が明け切っていない間に、父親の運転する車で出かけた。弟は車に乗り込むやいなや、寝息を立てている。
「香織、お前も少し寝ておくといい」
 父親のその言葉に甘えるかのように香織もいつの間にか寝てしまっていて、気がつけば夜が明けかけている海岸沿いを車は走っていた。
 以前にも夜明けを見たことがあったが、あの時はずっと起きていて見たものだ。日が昇ってくる瞬間から見ていたが、今日は偶然にも半分まだ水平線に沈んでいるところから見ることになる。香織はこの時間帯が一番好きだった。
「そろそろ着くわよ」
 母が弟を起こしに掛かる。父は、ずっと朝日を見ていた。
 駅に着くと、おじさんが待っていてくれた。
「よう来られた。ゆっくりと楽しんでいかれい」
 方言交じりの話し方は、いかにも人懐っこさを感じたが、その時なせか、他人行儀な雰囲気が、どこか別世界の人のように思えていた。
 朝日を思い出しながら釣りに勤しんでいたが、その日は思ったよりも大漁だった。獲物の大きさは、それほどのモノではなかったが、数がすごかった。一番釣れたのは父だった。
 砂浜からの投げ釣りだと、リールを巻いてくるまでは、結構時間がある。まわりを気にして見ていることも多く、左側に見えている崖を何とはなしに見ていたが、
――どこかで見たことがあるような――
 と感じ、それが夢で見たものであったことに気付くまで、少し時間が掛かった。
 だが、気付いてから思い出すと、思い出すまでがあっという間だったように思う。それは夢を見ていて目が覚めてから思い出す感覚に似ていた。
――そういえば、あそこから誰かが飛び降りるところを夢で見たんだわ――
 何かの胸騒ぎがあったのだろう。
「どうしたの? あっちに何かあるの?」
 ちょうど、お昼に近い時間だった。もうそろそろ父が、
「そろそろ、昼にしようか」
 と言い出すのを心待ちにしていた。お弁当は母が朝早く起きて作ってくれた。皆が起きるのも早かったのだから、さらに早い時間に目を覚ましていることになる。睡眠時間は、どれくらいだったのだろう?
 昼前くらいになると、太陽がちょうど、岸壁の真上くらいにある。岸壁からこっちはシルエットのようになっていて、眩しさを感じながら見ていると、次第に視界が暗くなってくるのを感じてしまう。
 完全に昨夜の夢を思い出しているようだ。
 母親はそんな香織の気持ちが分かるわけもなく、
「どうしたのかしら?」
 とばかりに、聞いても答えてくれそうにない娘の横顔と、娘が見つめている崖の上と、それぞれ交互に見つめている。
 すると、ごこからともなく悲鳴のようなものが聞こえてきた。
「誰か来て」
 女性のようだが、その声に覚えはなかった。もっとも、悲鳴や奇声に関していえば、普段とはまったく違う声を出すだろうから、分からなくても仕方がない。ひょっとして女性か男性かも分からないだろう。
「今の声、どこからかしら?」
 香織は父や弟に尋ねたが、
「声? どこからそんな声がしたの?」
 父も弟も分かっていない。
「聞こえなかったの?」
 それを聞いて母が二人を問いただす。
「お母さんには聞こえたのね?」
「ええ、ハッキリと」
 女性にだけ聞こえたのか、それとも断崖という同じ場所に集中していた二人だから聞こえたのか分からない。もし、その声が一定の周波数を持った特殊なもので、女性にしか聞こえないものだとしても不思議もないし、声のする方を見ていたということで聞こえたとしても、それも不思議のないことだ。
「お母さん、行ってみよう」
「ええ」
 最初は渋り気味だった母も、香織の決意を尊重して一緒に行ってみることにした。もし何か一大事が起こっていたら、取り返しがつかないし、何よりもその時に行動しなかったことで後悔したくなかったからだ。
「お父さんたちは、ここにいるぞ。行くなら気をつけるんだぞ」
 完全に二人は信用していないようだ。女性二人が真意を確かめたいと思っているのを止める権限がないだけに、気をつけなさいという言葉だけでその場を収めているようにも思えて、
「男性って、そういうところがあるのよね」
 と、見合わせた母と頷きながら、無言のコンタクトを取っていた。
 断崖までは、砂浜を歩いていけばいいのだが、何しろ砂浜、歩きにくくて仕方がない。釣りをするところまでは歩く人もいるので硬くなっているが、ほとんど人が歩かないところは、靴が砂に纏わりついて、歩きにくいったらありはしない。
 必死になって歩いていくと、まず最初にその人を見つけたのは母だった。
「きゃあ」
 母の声が聞こえたが、その時の母の声のトーンも少しおかしかった。それまでに聞いたことのないもので、まるで子供の声のように高いトーンだった。
 振り返ってみると、最初に母の顔があった。驚きからか、それ以上、声も出ないといった感じで、一点を見つめていた。
 香織も恐る恐る覗き込むと、そこには母親が固まってしまった原因が横たわっている。香織は母親のように声を出すことも出来ずに、そこに立ちすくんだ。
 うつぶせになって人が倒れている。頭からは黒いものが流れているようで、最初はガソリンのようなものに感じた。何となく嫌な匂いがしたからだ。だが、それはガソリンではなかった。元々真っ赤だったものだったのだ。最初はそこまで頭が回らずに見下ろしていたが、匂いのきつさに吐き気を催して、まさか、それが血の匂いだとは、子供には分からなかった。
 もっとも、母親にも血の匂いは初めてだったに違いない。立ちすくんだまま動かない二人、頭の中では、
「何とかしないといけない」
 と叫んでいるのだが、身体が萎縮して動かない。
 本当は、こんな光景を娘に見せたくはなかった母だったはずなのに、母が固まってしまったことで、香織にも余計な先入観が働いた。最初に見たわけではないので、少しはショックが少ないかも知れないが、それでもその先入観のおかげで、また違ったショックが身体にかなしばりを与えたのだろう。
 母の声が今度は父にも聞こえたらしい。
「どうしたんだ?」
 後ろから父の声が聞こえる。
 まだ転がっているものを見つけていないのだろう。声の調子はいつもと同じだった。
「うわっ」
 一瞬たじろいだ父だったが、さすがに男、固まるようなことはなかった。それどころか固まってしまった香織と母親の背中を叩いて、
「おい、しっかりしろ」
 と檄を飛ばした。
 身体に痺れを感じると、急に身体が軽くなり、動くことができる。母も同じようだった。
 頭はしっかりしていたのだから、一撃が加わることで、身体が活性化されるというものである。
――逃げ出したいと思う気持ちが大きすぎたのかも知れない――
 動かなかった身体の理由をそのように分析する。
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次