短編集120(過去作品)
私の言っている彼・・・
私の言っている彼・・・
海は果てしなく広がり、水平線は遥か遠くに見える。いきなり目隠しをされてこの場所に現れれば、日が暮れた後なのか、朝日が昇る前なのか、分からないだろう。
風が冷たい断崖絶壁、砂浜から見上げることができる。砂浜から断崖を眺めていると、断崖の向こうに見える空と、影になった部分とが、少しだけ分かってくる。目が慣れてきた証拠であろうか。
それは夢だった。夢だと最初から自覚している夢というのも珍しい。実際に、女の子が一人でそんな時間、そんなところにいること自体、あまりにも不自然だからだ。
山下香織は、現実的なところと、幻想的なところ、両面を持っている女性だった。だから、幻想的な場面を夢でよく見るし、しかも見ているのが夢だとすぐに気付くことも結構あった。その時も、
「きっと夢なんだ」
と自分に言い聞かせていた。
以前にも同じような夢を見たことがあったが、その時は、自分にとって大いなる人生の転機になった時だった。ある事件がきっかけで、今の自分の進路が決まったようなものだった。
今、香織の仕事はナースである。小学生の頃からナースに憧れ、勉強することで掴んだ職である。
だが、香織にとってナースという仕事は憧れだけではなかった。正直にいうと、ナースになったことで自分を責めなければいけないこと、いつも自分が正しいと思って生きていきたいと思っている気持ちを幾度となく踏みにじられたこと、それらは、もし他の職業を選んでいたら、ここまで考えさせられることなどなかったであろう。
香織にとって、ナースという仕事がある意味、「みそぎ」に近いものがあると思うのは、きっと彼女の性格によるものだろう。自責の念に押し潰されそうになりながら、よくここまで頑張ってこれたと自分でも思っているが、まわりから見ていても、
「彼女、そのうちにやめていくかも知れないわね」
という話が出たり、最初配属になった大きな病院では、
「今回も数人のナースが配属になったけど、一番最初にやめそうなのは、彼女かも知れないわ」
と先輩からは言われていた。
実際に最初に配属になった病院で、最初にやめたのは、やはり香織だった。まわりが最初にやめるのが香織だと噂をしていたことが分かっていただけに、後悔の念が襲ってもきた。
やめる時は、
「もうダメ、耐えられない。やめるしかないわ」
とやめることしか視界に入っていなかった。だが、実際にやめてから一人になってみると、それまで一人だと思っていた自分と違う自分がいることに気付いたのだ。
やめたいと思った本当の理由は何だったのだろう? 最初は些細なことだったに違いない。気がつけばいつも一人で、忙しさの中に身を置けば、寂しさも忘れられると思っていたが、忙しさだけではなく、精神的にも衰弱していく。
寂しさは衰弱をも蝕んでいく。蝕まれた身体は、寂しさを腐食する。結局、どちらからも接点があり、その場所から逃れられないことで、
「死んだ方がマシかも?」
とまで考えるようになった。
それでも、自殺をしなかったのは、ナースになろうとしたきっかけを思い出したからだろう。
そう、あの夢、断崖から人が落ちる夢を見たのだ。落ちる瞬間がシルエットのようになって浮かび上がって、遠くから、
「ドボーン」
というかすかだがハッキリと聞こえた気がした。
断崖を見つめていた時点で夢だと分かっていた。いつもならいくら気になっていても、目を離したいと思えば目を離すことができるはずなのに、その時だけは、自分の意志ではどうにもならなかった。
断崖から落ちたものが、最初は何か分からなかった。
――何かが落ちる――
そんな感覚があって、じっと見つめていたような気がする。最初から分かっていたような気がするのもやはり夢だと思ったゆえんである。
夢の中で感じることのない時間を感じた。ゆっくり落ちていくのは人間であると感じたからだ。
――目の前で人が転落――
そう思っていると、気がつけば夢から覚めていた。知り合いが飛び込んだような気がしていたせいだろうか、夢から覚めても、まだ夢の中にいるような感覚が残っていた。
薄暗い部屋の天井が近くに見える。カーテンから漏れる薄日は、まだ夜が明け切っていないことを示していた。香織の部屋は東向きなので、朝日が入り込む。いつもは朝日で目を覚ます。
汗が背中に滲んでいるのを感じた。薄っすらと滲んだ汗は気持ち悪い。かなりぐっしょりと濡れている感覚があるが、実際はそれほどでもないだろう。もっとも、身体を起こして服を着替えるのはかなり後になるので、それまでにある程度乾いているからかも知れない。
特にその日は身体が重たかった。頭が重たかったと言ってもいい。
――頭痛がひどいわけではないが、この重たさは何だろう?
そんなことを感じながら身を起こすと、意外とすんなり起きることができた。
布団から出てしまうと、身体の重たさも抜けていた。却って身体が軽くなったかのようだ。横になっている時の方が身体が重たく感じることもあり、汗が身体に滲んでいるからだと勝手に解釈していたが、間違ってはいないだろう。
その日の午前中までは何もなく過ごせた。学校ではちょうど五時間目に体育の授業があり、跳び箱や鉄棒と、少し苦手な分野だったが、無難にこなしていた。
昼食が済んでからということもあってか、少し頭がなまっていたのかも知れない。全体的に動くが鈍く、だらけているように見えたのは香織だけだろうか。
「よし、じゃあ、跳び箱と鉄棒の班、二班に分かれて行うことにする。最初は男子が跳び箱、女子が鉄棒だ」
跳び箱は砂場に参列設置され、男子が次々に飛んでいる。女子は逆上がりが苦手な人のお尻を押してあげたりと、仲良くやっていた。先生も女子の方を気にして見ていた。
「うわぁ」
分かれてから五分くらいしてからだろうか。跳び箱を飛んでいた男子の方から悲鳴が聞こえた。飛び損ねて砂場に突っ込んでいる男の子がいる。その横で弾き飛ばされたのか、砂場にうまく突っ込めなかった生徒もいた。
「大丈夫か?」
先生が助け起こしながら、
「誰か医務院の先生を呼んできて」
と叫んだのと同時に、香織が一目散に飛び出していた。まわりの皆は擦り傷からあふれ出ている血を見て、その場ですくんでしまったのか、傷口から目が離せないでいた。
香織は、思ったよりも冷静な自分にビックリしている。怪我を見た瞬間から、
――医務院の先生を呼ばないと――
と感じていたのだ。先生の言葉を待っていたかのように飛び出していったのも、無理のないことである。
医務院の先生の手際はすばらしかった。
皆は恐る恐る覗き込んでいたが、香織は完全に医務院の先生の手際のよさに傾倒していた。
――私もあんな風になりたいな――
と感じたものだ。
その時、何か嫌な胸騒ぎがしたのも事実で、それが何なのか、まったく分からなかった。
家に帰ってしばらくすると、一本の電話が入ってくる。それは父親からで、翌日が祝日なので、
「家族で釣りに行こう」
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次