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短編集120(過去作品)

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 下手に動けば、足を踏み出したところに何もなければ、後は奈落の底。実際に奈落の底など存在しないと思っているので、気がついている場所がどこになるのかを思うと、奈落の底に落ち込んでしまった方がいいかも知れないとも思う。
「真っ暗な世界は、新しい世界への入り口なのかも知れない」
 そんな思いを感じながら、奥さんの話を聞いていた。
 昨日と同じことを繰り返しているように思うと言っているが、私にも同じ思いがあった。昨日のこともハッキリと覚えている。一日一日成長していることを感じているのが思春期で、
「覚えている昨日のことを繰り返してはいけない」
 と言い聞かせている。
 だが、それでも同じことを繰り返しているのは、無意識に同じ時間に同じところにいるからで、一日くらいでは、行動パターンを変えるほどの成長はありえない。ということは、無意識の間は昨日のことを忘れているということであろう。
 奥さんは続けた。
「主人はどうしても私の言うことを信じてくれないのよ」
 まるで助けを求めるような眼差しは、
――私なら、間違いなく同意してくれるだろう――
 と確信しているかのようであった。
「信じないのは当然でしょうね」
「あなたの言葉には説得力があるのよ。きっと、私のいうことを信じてくれる数少ない人だと思うのよ」
「どうして、そう思いました?」
「だって、あなたと初めて会ったような気がしないんですもの。きっとどこかで会ってますよね?」
 正直ビックリした。私にも同じ思いがあったからだ。最初は会ったことがあるような気がするなどということを思いもしなかったが、奥さんの話を聞いているうち、自分の中でいろいろ思い出しているうちに、きっと奥さんから言われるだろうと思うようになっていた。
 上の階に住んでいた奥さんを思い出していた。表情を思い出すことはできるのだが、顔がなかなか思い出せない。
 最初は、目の前の奥さんの魅力に魅せられているからではないかと思っていたが、それにしても表情を思い出せるのは不可思議だった。
――どこかで会ったと思っているのは、二人があまりにも似ているからではないだろうか――
 ただ、年齢的には違っているので、他人の空似だろう。姉妹だとすれば、こんな偶然があったものではない。
 だが、奥さんは私に会ったことがあるような気がしていると言った。私にしても、その頃は小学生で、完全な子供だった。声変わりもしていないし、子供の頃と今とでは、知っている人でも分からないくらいである。
 知っている人のように思うのは今までにも何度かあった。特に中学に入ってこの街に引っ越してきてからというもの、同級生の中にも、前の学校で見かけたことのあるように思った友達もいたくらいだ。
――頭の中に残像が残るのだろうか――
 考えてみれば、私はあまり人の顔を覚えるのが得意ではない。三十分くらい一緒にいた人でも、数日経ってしまうと、もし出会ったとしても、本当にその人かどうか自信がない。その一番の理由は、自分に自信がないからだ。
「○○さんですよね?」
 と訊ねて、
「いいえ、違いますよ」
 と言われるのが嫌なのだ。きっと顔が真っ赤になってしまい、相手の顔を見ることすらできなくなるだろう。そんな光景を想像するだけでゾッとしてしまう。
 顔が上げられないほど恥ずかしい思いでもないはずなのに、一度恥ずかしいと感じると、意識してしまってダメである。
 子供なのだから相手を間違えても仕方ないと中学生になると感じるが、今度は、
「中学生になったのだから、もう間違えられない」
 と思うのだ。
 これも高校になって今を思い出すとまた違うのかも知れない。堂々巡りの中、時間だけが通り過ぎていく。
「私もなかなか人の顔は覚えられないんですよ」
 と奥さんが助け舟? を出してくれた。
 しかし、助け舟を出してくれた人に対して口から出てきたのは意地悪な言葉だった。
「人の顔以外だと覚えられるようですね」
 言った後に、
「しまった」
 と感じた。失礼だと分かったのだが、言ってしまった以上、引っ込みがつかない。ここは開き直るしかなく、思わず微笑んでしまった。すると、彼女の表情が照れ臭さの中に、ドキッとしたものが浮かんでいることに気付いた。
「犬だったら分かるんですよ。同じ種類の同じような大きさの犬でも、前に会ったことのある犬だったら、その犬だってね」
 私には分からない感覚である。犬は好きだけど、なついてくれている犬であれば分かるのだが、以前に一度会ったくらいではまったく分からない。何よりも、
「人間の顔も思い出せないのに、犬が思い出せるわけはない」
 という思いが先に来るからであろう。
 だが、犬の顔は正面から見ていると、確かにどの犬にも特徴がある。相手を探っているという表情に嫌味がなく、可愛らしさを感じるのだ。
 人間が相手を探っている時というのは、どこかに嫌味を感じるものだ。それを感じない人がいるとすれば、その人は自分にとって、
――愛すべき人――
 ということになるだろう。
 最近まではそんな気持ちになったことがなかった。
 一度小学生の時、同級生の女の子の視線に、
――可愛らしさ――
 を感じたことがあった。
 彼女は何かを訴えていた。それが何かは分からなかったが、初めてできた女の子の友達であることには違いなかった。
 小学校の三年生の頃で、何か友達から羨ましそうな視線で見られているということに自尊心を感じたものだ。
 彼女はとても控えめの女の子だった。いつも一緒にいたような気がする。時々顔を正面から見ると、ニコッと微笑んでくれるが、その顔を見ると、
――いつまでもこうしていたい――
 と思ったものだ。
 何をして遊んでいたのかは、今ではあまり思い出せない。ただ、一緒にいるだけで楽しかった。それも何が楽しかったのかも分からないが、一緒にいない時の自分を想像できないという思いが強かったからだろう。
 最初は、微笑んでくれることの多かった彼女だったが、次第に無表情が目立ってくるようになる。そうなると、一緒にいても楽しくない。次第に一緒にいる時間を短くしようと考えるようになった私の気持ちが分かっているのか、寂しそうな表情になっている。
 元々少なかった会話が、まったくなくなってしまうと、後は苦痛しか残らない。それでも彼女の寂しそうな表情に耐えられず、しばらくは一緒にいることが多かった。彼女と一緒にいて何をしていたのか思い出せないのは、思い出そうとすると、彼女の寂しそうな表情しか浮かんでこないからだった。
「心配しなくてもいいんだよ」
 いつもこの言葉を口にしていた。その時のシチュエーションはさまざまだったはずなのに、この言葉の前後にはれっきとしたつながりがあった。唐突に出てきた言葉ではなかったことには違いない。
 何を心配しなくてもいいと言いたかったのだろう。そばにいなくなることがないと言いたかったのだろうか。
――いや、違うような気がする――
 そばからいなくなることをその時にはすでに予感していたはずだったからである。
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次