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短編集120(過去作品)

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「ええ、まだ独身の頃に、同じような気持ちになったことがあったの。まだ学生の頃のことだったんだけど、同じことを前にも感じたことがあると思って思い出そうとするんだけど、それがさっきのことか、昨日のことか、はたまた一年前のことか分からないんですよ。そのどれもであるようにも思うし、どれもでない気もするんですよね」
 そう言って、奥さんは遠くを見つめている。
 私も都会に住んでいる頃は、両親が共稼ぎだったので、一人で家にいることがあった。今も共稼ぎではあるが、都会にいた頃とは少し趣きが違う。
 マンションというのは、皆同じような部屋で、特に真上と真下の階は同じ構造のはずである。
 上の階には小さな子供がいるのか、夕方くらいから夜の八時過ぎくらいまで、ドタドタという音が聞こえてくる。
「うるさいな」
 何度、思ったことだろう。一度、どんな家庭なのか見てみたくなった。上の階に上ってみると、玄関の前には子供の三輪車が置かれている。日曜日だったので、お父さんも家にいて、ちょうど、三人で買い物に出かけようとしているところだった。
 車で買い物に出かけるのかと思うと、そうではなく、近くのスーパーに歩いて出かけていた。
 することもなかったので、後ろから追いかけた。最初こそ後ろめたさを感じていたが、「自分が歩いている前を相手が歩いているだけだ」
 と思うだけで、後ろめたさも吹っ飛んだ。
 実に都合のいい考え方だろう。それまでは人のことを必要以上に気にすることは罪悪だと思っていたはずなのに、自分でも不思議だった。
 それからというもの、都合よく考えることに罪悪を感じなくなった。
 感覚が麻痺してきたのだろう。ただ、どういう行動を取るのか、ドキドキしている自分がいるだけだった。それはいつもの自分ではなく、いつもの自分はどこかに置き去りにしてきたのだ。
 最初は子供が気になっていたが、次第に奥さんを気にするようになった。自分の母親とは雰囲気が違っている。後ろから見ていて、やはり気になるのはお尻である。思ったよりも背が高く見える。ひょっとしてスリムな体型なので、背が高く見えるのかと思ったが、旦那さんと並んでいても遜色ないくらいである。
 Tシャツにジーンズという出で立ちは、まるでアーチストのようだ。肩まで伸びた髪の毛も茶色かかっていて、風に乗ってサラサラと靡いている。
 あたりの空気が乾燥しているように思うほど軽々と靡く髪の毛からは、花の香りがしてきそうな雰囲気だった。
 歩くたびに腰が揺れて、お尻から目が離せなくなった。今まではジーンズを穿く女性をイメージしかことはなかった。目が行くなら、スカートの女性である。
 いやらしいイメージで見ているわけではなく、落ち着いた雰囲気に癒しを感じていたのだ。
 奥さんのことを気にし始めるまでは、部屋に一人でいても、あまり寂しくはなかった。だが、子供を連れて、旦那さんと一緒に出かける奥さんを見てしまってからは、部屋の中に一人でいることに対して、寂しさというよりも、恐怖を感じるようになった。
 母親を意識するようになってから、上の階から子供が走り回る音が聞こえなくなった。最初は、
「どこか親戚の家にでも遊びに行っているのだろう」
 と感じた。まだ小学校に上がる前くらいなので、学校を気にしなくてもいい。近くに実家があって、おじいちゃん、おばあちゃんでもいれば、孫が来ることを喜ばないはずもない。夫婦にとっても、嬉しいことだろう。
 その証拠に、夜遅くなると、上の階から女の人の悲鳴のような声が聞こえるようになった。夫婦の間の睦言なのだが、子供の頃の私にそんなことが分かるはずもない。搾り出すような声に恐怖を煽ったりもしたが、子供とはいえ男、どこか身体がむずむずして、ドキドキしている自分を感じていた。
 だが、そんな声を楽しみにし始めた矢先、今度は、その声も聞こえなくなってきた。
 上の階からは、何にも声が聞こえなくなったのである。
 気になって学校の帰りに上の階の玄関先を覗いてみると、三輪車がなくなっていた。
 表札は残っている。じっと表から中を観察してみると、中からガタンという音が時々聞こえてきた。
「誰かいるんだ」
 それが奥さんであると、確信していた。間違いなく人の気配がしている。奥さん以外には考えられなかった。
 すると、次の日からまた、上の階から、夫婦の睦言が聞こえてきた。今までよりもハッキリ聞こえているように思う。
――歓喜の声を上げる奥さん――
 私は、オンナというものをその時に知ったと思った。
 それからというもの、自分の中で悶々し始めた私は、誰にも言えない秘密を持ってしまった。
 上の階に上がった時に、奥さんに見咎められたのだった。
「あなたは、下の階のぼうやね?」
 ぼうやと言われて、少し癪に触ったが、奥さんに見つめられると、何とも言えなかった。
 思わず逃げ出してしまったが、後から思うと後悔した。
「もし、あのまま奥さんと一緒にいたら、どうなっていただろう?」
 きっと悪戯されたかも知れないと思った。
 後姿しかまともに見たことのなかった私だった。前から来られると視線をそらしていたからだ。それも意識的にではなく、無意識にだった。意識的にであったら、きっと、そらそうとしてもそらすことができなかっただろう。それだけ奥さんに見つめられると目を離すことができなくなると思ったからだ。
 それは結果的に事実だった。
 彼女に見つめられて、逃げられない自分を感じた。もちろん、見つめ合うとすれば、こんな出会いがしらでもない限りありえないことだからである。
 その日は、部屋に帰っても誰もいない日だった。寂しい部屋は、いつもよりも冷たく感じられ、さらに静けさが手伝ってか、耳鳴りまで感じていた。
 それでいて、少々の音でも敏感に感じた。テレビをつけるのも億劫で、本当は自然の音をテレビの音で消してしまえば敏感になっている神経の高ぶりを抑えることができるかも知れないが、敢えてしなかった。
 一人での部屋を冷たい風が通り過ぎていく。さっきまで眩しかった西日が次第に暗くなってきたかと思うと、急に真っ暗になってしまった。
 何が起こったのか分からない。斜光カーテンが閉まったかのように部屋の中は、光の侵入を許さなかった。
「こんな時は下手に動かない方がいい」
 口に出して自分に言い聞かせた。落ち着かせようという思いが強い。確かに下手に動いてもしょうがない。明るくなるのを待つだけだった。
 真っ暗な中を歩いていて、気がつけば奈落に落ちていく夢を見たことがあった。足が攣ってしまい、痛みが引くのをじっと待っている自分を感じていた。足が攣った時はなるべく誰にも気付かれず、痛みが通り過ぎてくれるのを待つしかないことを子供心に知っていたのだ。
 痛みを堪えている時は、まったく動かない。せっかく痛みが治まりかけている時に、下手に動くとまた痙攣を起こしてしまう。堂々巡りを繰り返すことになるのだ。
 暗闇の中というのは、足が攣った時に似ている。
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次