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短編集120(過去作品)

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 母親のことだから、きっと彼女が私をそそのかしたと思うだろう。自分の子供はいつも正しいという考えに立ってものを言っているのであれば、別に何か言われてもそれほど気にならないだろう。しかし、こういう場面で子供を庇い、相手の女性を罵るような態度に出る場合は、まず世間体を気にしてと思う方がいい。
 自分の育てた子供が新婚の奥さんと一緒にいるところなどを他の奥さんに見られると、まず白い目で見られるのは自分である。せっかく子供が絡んで親密になれたのに、子供のせいでその関係が壊れることを恐れている。
 おばさん同士の井戸端会議では、恰好のネタである。相手の奥さんがそそのかしたにしても、子供も白い目で見られる。当の母親も他人事であればきっとそうに違いない。
 集団意識の成せる業というべきであろうか。誰かが意見を言えば、その意見に逆らう人は白い目で見られることが多い。意見をいう人が決まっている場合は特にそうである。母親は自分から意見を言うタイプではないが、人の意見に一言二言付け加えないと気がすまないタイプで、私はそういう母が一番嫌いだった。
「輪の中にいるなら、中心でないと」
 まわりから茶化すだけの人は、人の褌で相撲を取っている人のようで、どうにも好きになれない。
 そんなおばさんたちばかり見ているせいか、新婚の奥さんが新鮮に見える。声を掛けられたことで、半分気持ちは舞い上がってしまっている。
 奥さんの家に入るところを誰かに見られたわけではないが、ドキドキしている気持ちはどこから来るのだろう。何かを期待している自分を感じていた。
「旦那さんは優しいですか?」
 そんなことを訊ねようなどと、最初から思っていたわけではない。むしろ、何を話していいか分からずに口から勝手に出た言葉だった。
「まあ、いきなり聞いてくるのね」
 そう言って、少し顔を赤らめた。だが、嫌がっている雰囲気ではない。
「すみません」
「あら、いいのよ。優しいところは大いに感じるわね。でも、男って優しさだけじゃないからね」
 私の質問をごまかそうとしているわけでもない。直球に対して直球で答えを返そうとしているようにも思える。
「まずは優しさじゃないのかな?」
「確かにそうね。気味にも同じ優しさを感じるわ。だけど、君には彼にないものを感じるし、彼にも君にないものを感じるのよ。きっと彼の前にいる私と、今の私ではまったく違う私になっていると思うわ」
 旦那に対する態度と、近所の中学生に対する態度で同じだったら、その方がおかしいだろう。
「私ね。いつも同じ時間を繰り返しているように思うの。専業主婦なので、毎日掃除洗濯、さらにはお買い物と、同じスケジュールなのね。今まではOLをしていたので、毎日仕事が同じスケジュールということはあったけど、内容が違ったのよ。でも、専業主婦で家庭に入ってしまうとまったく一緒、この感覚って不安が募るものなのかも知れないわ」
 そんな話を聞いていると、気のせいか、部屋が暗くなり始めている。
「ほら、あなたには分かるかしら? お部屋が次第に暗くなってくるの」
 奥さんのその言葉とどちらが早かっただろうか。何かお香のような香りを感じていた。
 中国に行ったことはないが、街に出ると中国雑貨店がある。そこにたまに寄るのだが、そこで感じるお香の香りに似ている。
「お香の香りを感じるんですが、気のせいですか?」
 と訊ねると、
「あなたにも感じる? 私も時々感じるのよ。夫に話すと、何も感じないって言うんだけど、私の気のせいだと思っていたの」
 お香の香りが嫌いではない。中国のお茶を時々母が作ってくれるが、その匂いにお香の香りが染み付いている。味はそれほど好きではないが、最初に喉を通る瞬間、それが一番匂いを感じる時である。
「薬だと思って飲めばいいのよ」
 苦いと思うこともあれば、味を感じない時もある。同じものなのに、本の少しでも体調が違うと味が変わってくる。ひょっとして、まったく同じ味を味わったことなど、今までに一度もなかったのではないかとさえ思う。
「お香には催眠作用があると言われているわ。眠くなったりすることもあるみたいよ」
 母から聞いた話である。これも井戸端会議のおばさん族から教えてもらったことかも知れないと思うと少し忌々しいが、お香やお茶の香りにだけは素直に傾倒してしまっていた。
「ここって新築なんでしょう?」
「ええ、そうなの。だから前に住んでいた人の影響があるとは思えないんだけどね」
 そういえば、私の家も元々新築だったが、最初から何か匂いを感じていた。新築の匂いではなく。きんもくせいのような香りだった。
 近くにきんもくせいの木が植わっていたので、きっとそのせいだと思ったが、お香の香りだけはどこか神秘的だった。
 木造家屋であれば、壁土の匂いがすると聞いたことがある。壁土が零れてくるような家に住んだことはないが、木造家屋に住んでいる友達が小学生の頃にはいた。
 土地が広く、増築したところは鉄筋コンクリートでできているのだが、昔からの屋敷はまだまだ壁土でできていた。
 友達の部屋は増築した方にあったのだが、おじいさん、おばあさんの部屋は昔の屋敷にあった。時々遊びに行って団子などをご馳走になったが、その時に感じた壁土の匂いだった。
 家に一人でいることがないと言っていたおじいさんは、いつもおばあさんと一緒に行動していた。
 と言っても屋敷からほとんど出ることもなく、毎日を平凡に暮らしていた。
「平凡に見えるじゃろうが、毎日がまったく違う気持ちで過ごしているんだよ。その証拠に、毎日の時間がまったく違っているんだ」
 と言っていた。
 どういうことか分からなかったが、日没の時間が毎日違うのが身に沁みて分かるということだった。確かに同じ時間ではないことは認めるが、逆にまったく同じ行動をしていないと、日没の違いを感じることはないだろう。それが分かった時には、すでにおじいさんはこの世の人ではなくなっていた。
「おばあさんも、あれからすぐに亡くなったらしいわよ」
 風の噂に聞いたが、二人がいなくなってから、その木造家屋は取り壊されたということだった。
「唯一知っている木造だったのにな」
 少しショックを感じていた。友達とは引っ越してからも時々会うこともあった。そのほとんどは、友達がこっちに遊びにくるのであって、私の方から遊びにいくことはなかった。
 奥さんも、毎日を同じリズムで暮らしていると言っていた。毎日が同じすぎることが却って平凡なはずの家庭に余計な神経を回してしまって、気持ちに変化を持たしているのかも知れない。
「私って、毎日同じ時間を何度も繰り返しているのかしら?」
 また、おかしなことを言い出した。
「どういう意味ですか?」
「夢から覚めると、また同じことをし始めているように思うのよ。最初は昨日と同じことをしていると思うんだけど、それにしては、ごく近い過去に遡っただけに思うのね」
「それで、同じ時間を何度も繰り返していると?」
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次