短編集120(過去作品)
先輩の家はかなり裕福で、先輩だけではない。田坂が通っていた大学は、裕福な家庭のご子息が多いことで有名だった。
授業料が高いとかいうわけではないが、芸術関係や経営学関係に優れた伝統があることで、そういうイメージがあるのだろう。先輩も経営学を学びながら、絵画の道を目指している人だった。個展を開けるくらいの腕前だと聞いていた。
先輩が羨ましかったが、育った環境にもよるのだろうが、性格的にはおおらかで、芸術をいそしむには格好の性格だったのではないだろうか。女の子の友達も多く、男の友達から慕われているところがあった。
「ありがとうございます」
いつもなら、甘えているわけにはいかないと、丁重に断るだろう。男としてのプライドが許さないからだ。だが、その時は素直に先輩の意見を汲んだ。どうせ自暴自棄になっているのだから、どこまで堕ちるか、見てみたかった。
「こんばんは」
風俗街と呼ばれるネオン街を、先輩は堂々と歩いている。それどころか、店の玄関先でウロウロしている人たちに気軽に話しかけている。
「最近は、なかなか規制も厳しくて、客の引き込みもおおっぴらにはできないようになったんだ」
福岡にいる友達に聞いたことがあったが、オリンピック招致合戦を東京と繰り広げていたために、風俗はほとんどが摘発の対象になったらしい。
実際に路地裏で軒を連ねていた店が軒並み店を閉める状況に陥ったり、店の形態を違う名前にして営業したりと大変なようだ。
もちろん、東京でも同じだろう。何しろ、東京が次のオリンピック招致を目指しているのだから当たり前である。
初めての風俗で、気がつけばあっという間だったが、また今度行ってみたいと思った。それは相手をしてくれた女の子との話が楽しく、女性不振に陥っていた気持ちを晴らしてくれたのだ。
振られたことは自分から話さなかったが、女の子には分かったようだ。
「落ち込む必要なんてありませんよ。女というのは、追えば追うほど逃げたくなるものですからね。男性がどっしりと構えていれば、女性は慕いたいものです。がんばってくださいね」
考えてみれば、男性相手の商売、いろいろな男性を相手にして、一番男性を知っている彼女たちである。慕いたいと思う男性もいれば、好きになってはいけないと、自分に言い聞かせることもあるという。そんな話を聞けば、一人の女性ばかりを気にしている自分が小さく思えてきた。
立ち直ったとすれば、それからだった。学生時代には数人の女の子と付き合い、社会人になってからは、なかなか知り合うこともなく今まで一人でいたが、焦ったりすることもなかった。
そんな時、自分が一番遭うと辛い女性を見かけたのだ。まさか、柏田と結婚していたとは思ってもみなかったが、今であれば、対等に話ができるかも知れないとも思った。車窓から明かりを見ながら、次の日に彼女に遭ってみる決心をした。
電話を掛けると、
「いいですよ。明日は時間がありますので、お越しいただけますか?」
「分かりました。明日、昼前に伺います」
家まで行くと、さすがにやつれている美恵子が出迎えてくれたが、その表情には懐かしさが宿っていた。最後に辛く当たったあのイメージはどこにもなく、優しく迎えてくれる。
リビングに通されると、コーヒーがすでに入っていた。香ばしい香りが室内に充満し、落ち着いた気分にさせられた。
「私ね。あなたに謝らないといけないの」
いきなり何のことだろう?
「あなたに辛く当たって、本当にごめんなさい。でもね。あれは仕方がなかったの。あなたに私をあきらめてもらわないといけなかったから」
「どういうことだい?」
「実は、亡き夫にしつこく言い寄られていたのね。でも、私は必死でそれを避けるようにしていたの。でも、父の会社が倒産しかかって、彼の家にすがるしかなかったの。だからあなたを遠ざけるようにしながら、私自身にもけじめをつけていたの」
「そうだったのか」
握った拳に力が入る。
確かに彼女の実家の会社が危ないというのは何となく話で聞いていたが、まさか、柏田が彼女に食指を伸ばしていたのは知らなかった。何とも間抜けな三枚目になってしまったが、今から思えば、何とも恥ずかしい。
それを聞いた田坂は、美恵子を抱きしめる。美恵子も抗うことはしない。田坂に身を任せた。
「痛いわ」
と言われて、
「ごめん」
と口では言うが、力を緩めようなどとは毛頭思わない。数年の思いを一気に爆発させた。
やるせない思いが強くなってくる。次第に乱暴になってくるが、彼女の方から微妙に力が分散されていくのを感じる。押さえつけようとすると、まるで押し出されるところてんのようにすり抜けていく。
さらに押さえつけようとするが、ある程度までくると、美恵子の方から羽交い絞めにされる自分を感じる。
これが何とも心地よいのだ。
追いかけようとすると逃げる相手に最後は包まれてしまう快感。今まで追い求めていたものに思えてならない。
自分で気付かないところで、ずっと追い続けていた美恵子、柏田の死によって見えてきた美恵子の後姿。
気がつけば美恵子に包み込まれている。
運命に逆らうことなく歩んできた美恵子と田坂。この快感を得るために歩んできたのだ。
親との関係も同じかも知れない。包み込まれることの快感を教えてくれた風俗嬢を思い出していた。すべてが、この瞬間に終結しているようだ。
そういえば、柏田の棺を覗き込んだ時、頭が真っ白になっていた。しかも、短く綺麗に刈られていた。
――美恵子が刈ったのだろうか――
田坂にとって包み込まれた時に、真っ白になってしまった頭の中でイメージしたのが柏田の棺を覗き込んだ時の顔だった……。
( 完 )
作品名:短編集120(過去作品) 作家名:森本晃次