周波数研究の果てに
「湿気を帯びた重たい空気」
それが霧の中で声を籠らせるものではないだろうか。
二人が正対しているこの空間では、空気は薄くなっているが、その薄い空気は重たさがあるのだ。普通空気が薄いと、空気が重たいというのは矛盾した考えなのだろうが、二人の間では、そうとしか思えなかったのだ。
二人が同じ考えでいる証拠でもあるのだろう。そのことを川北氏の方が先に気付いていて、後で気付いたのは上杉記者であった。だが、この時の後先は、本当に一瞬のことだったはずなのに、一瞬であることに誰もいない空間が、すべてを知っているだけのことであった。
「川北さんは、どうしてやってもいない犯行を認めたんですか?」
と切り出すと、
「私がやったんだから、認めて当然でしょう?」
と表情を変えずに川北氏が答えた。
「そこが分からないんですよ。普通やってもいない犯行を認めるというのは、十中八九、犯人を分かっていて、その犯人を庇うために行ったということになるのでしょうが、あなたが事件を求めることのどこにメリットがあるというんですか? 警察に捕まって、実刑を受け、服役する。しかも、前科というものを背負いながらですよ。あなたが何かから逃げるために、認めたということも感じられない。そんなに、この研究が大切なものだったんですか?」
と訴えると、
「ええ、大事ですね。この研究は、今世紀最大の研究と言ってもいい。いや、博士が切り開いた部門では、史上最高といってもいいくらいなんですよ。私一人が罪に問われ、前科がつくくらい、何でもないことですよ。そんな発想は、俗世間のくだらない人たちのものであって、我々のような選ばれた人間には、魏の骨頂でしかない。しいていえば、そんなくだらない連中が多数いる中で、我々のような人間が少ないことで、肩身の狭い思いをしなければいけないという理不尽に、少し憤りを感じる程度ですね」
と、次第に言葉緒露骨になっていくが、それも上杉記者にも想定内のことであった。
「ところで、上杉さんは今日のプレス発表の内容はご存じだということですね?」
「ええ、先輩記者から聞きました」
と言って、先輩の名前を明かすと、
「ああ、あの方ですね。私も少しは存じております。博士とかなり親密になさっておられたので、私にとって、彼の存在は一番大きなものだったかも知れませんね」
と川北氏は言った。
「川北さんは、その様子を見て、嫉妬のような感情は浮かびませんでしたか?」
という上杉記者の意見を聞いて。
「嫉妬ですか? いいえ、ありませんでした。あの方は勝沼博士の精神的な支柱でしかたらね、その役目はとても私にはできませんでした。そういう意味では、感謝こそすれ、嫉妬などはありえないと言ってもいいのではないでしょうか?」
それが本音であることは、最初から上杉記者にも分かっていた。
それを敢えて、
「あなたは、博士の支柱のような存在になれなかったと言いたいんでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、もちろん、なりたかったです。でも、余命宣告を受けて、一般の人であれば、思考能力がマヒしてしまいそうな状況でも、博士は最後の力を振り絞って研究に邁進されていた。それを見た時、私は本当に博士についてこれてよかったと思いました。今回の研究が社会的に及ぼす影響もさることながら、先生という存在は本当にかけがいのないもので、私にとって、これ以上の人間はいなかったんです。その心境を分かってくださるとすれば、先輩記者さんだったんでしょうね。本当はあの方ともお話ができればよかったというのが私にとって、最大の後悔だったと言ってお、過言ではないでしょう」
と、川北氏は言ったが、その気持ちに一切の間違いなく、共鳴できるものだということを上杉記者は言明できると思った。
「今回の発表される内容がどこまでになるのか分かりませんが、私は、今回の研究が数年前の勝沼博士の殺害の謎を解き明かす内容なのではないかと思っています。そういう意味で、今回の発表は、完全なものではないだろうと思っています。完璧なものにしてしまうと、すべてが明るみになってしまい、そうなると、もう川北さんだけの問題ではなくなってきますからね。せっかく川北さんがご苦労されて、覚悟の上での一人で責任を背負う形になったものが、水泡に帰してしまいますからね。それだけは断じてしてはいけないことだったんでしょうね」
と上杉記者は話した。
「それはどういう意味でしょう?」
と、敢えてなのか、シラを切った川北氏だった。
「もう、ごまかさなくてもいいですよ。そういう含みがあったので今回の発表は学会の方で考えて、二段階にしたんでしょうね。そうすることで問題をすり替えるのと、曖昧にすることで、危険回避に繋がるという発想があってのことだったのでしょうが、どう対処していいのか分からないというのが、学会の本音でもあったんでしょうね」
と、上杉記者は分析する。
「では、あなたはあの時の事件をどのようにお考えなんですか?」
と、川北氏は言った。
「あの事件の犯人はもちろん、あなたではありません。あなたが途中までは否認されていたことは分かっていますので、そこまでがあなたにとっての真実だったのでしょうね。でもあなたは、途中でこお事件を自分だけの真実で終わらせてしまってはいけないことに気づいた。その真相があまりにも理解に苦しむ問題だったからですね。それがあなたにとっての一番のジレンマだったんでしょう。事実に対してのあなたの真実が理解できない。そうして、こんな事件が起こったのかというところから、分かっていなかったわけですから、本当の真相によく辿り着いたと、私にはそれがすごいと思えるところなんですよ。実際には一番博士のそばにいたあなたですから、外見上の事実くらいは想像はたやすい。だからこそ、その事実に対しての理解ができないことが矛盾であり、ジレンマだったんです。なぜ、こんなに悩まなければいけないのか。まるで自分に対しての試練のようなものを、あなたは感じられたはずですよ」
と、上杉記者は言った。
――この人は本当にすべてのことを知っているんだ。それは事実だけではなく、信教迄含めた「真実を」である――
と川北氏は考えた。
川北氏の表情を見ていると、上杉記者は満足だった。それは、自分が分かっているということを上杉記者が尊敬の念を抱いているというような印象ではなく、どちらかというと、相手に自分という人間を理解させるという意味での方が強い気がした。してやったりの気持ちもないわけではないが、むしろ心が通じ合えたことの方が嬉しかったのだが、本当であれば、もっと前から知り合えていればよかったと思っている。
発表前に知り合うことができればよかったのだが、発表があったから知り合えたのだとも言える。そこはお互いに人間である以上、避けて通ることのできない問題なのだろうと思った。