周波数研究の果てに
きっと、それは亡くなった先輩の方が叙実に感じていたことであろう。だから、死ぬ前に真実を明らかにしておきたかったに違いない。志半ばで亡くなった先輩の無念さを思うと、自分が行動を起こすのは、川北が禊を解いた時だと考えるのは当然のことで、自分も先輩に対して何もしてあげられなかったという罪の意識を禊として解釈してれば、川北が解き放った禊と同じ今であるべきだと思ったのだ。
川北氏は、さすがに普通の披露パーティのような晴れやかな舞台というわけにはいかないようで、絶えず緊張した表情が漲っている。同じように上杉記者も同じような緊張感をもって、初めて対面する川北に挑む気持ちでインタビューしたのだ。
川北からは、さぞや、
「厚かましい記者」
と思われたに違いない。
――いまさら過去のことをほじくり返してどうしようというのか。禊は済んでいるのである。
川北はそう感じていることだろう。
川北氏が初めて上杉記者の前に姿を見せた時、上杉記者の緊張感はかなりのものだった。そして彼には川北氏が自分を敵視していることがすぐに分かった。
もっとも、普通であれば敵視であることは分かっているだけにビックリはしなかったが、今の段階で自分が川北氏の味方の立場でいることを知られたくはなかった。
あくまでも今は味方の立場であって、味方ではない。味方になるためには、まだ何かが足りないのだが、その時の上杉記者には、その何かが分かっていなかった。
――川北助教授という人間は、相手に悟られないようにしようと思うあまり、悟られないようにするやり方ができていない。要するに不器用なのだ――
と感じていた。
自分もそんなに器用な方ではないが、川北氏ほどではないと思った上杉記者はますます川北氏を他人のように思えなかった。
川北氏は、自分が先ほど何を話したのか、だいぶ忘れていたが、実は上杉記者の方も、書き込んだメモを見ないと分からなかy他。
いつもであれば、ついさっきのことを忘れるようなことはないはずなのに、今回だけはまるで健忘症にでもかかったかのように、思い出せないのだった。
――急性というか、突発的にというか、健忘症がこんな風にして起こるものなのだろうか?
と思ったが、健忘症についてほとんど詳しいことを知らない上杉記者は、少し自分の記憶力が気になってしまっていた。
もちろん、弱遠征の健忘症というのはあるのだろうが、いきなりこんなところで急におこるはずもない。
何か、意識の中で
――忘れてはいけない――
と、猛烈に感じるものがあって、それを意識するあまり、他のことが覚えられないのだろうか。
覚えられないことと忘れてしまうことではまったく違う。
覚えられないことというと、幼児のように頭が固まっていない時は覚えられなくても仕方がないだろう。しかし忘れていくというのは、年を取ってからのことであり、頭が形成される場面での状況からか、それとも、一旦固まってしまった頭が老化によって衰えていく間に起こってくる現象なのか、それが大きく影響してくることではないかと、上杉記者は考えていた。
川北助教授にもモノを覚えられないことと、健忘症に関しては独自の考えを持っていた。それは、上杉記者と似てはいるが、同じものではないという、そんな感じのものだった。
川北助教授には、悪い癖があった。
「モノを捨てられない」
という意識があったのだ。
頭の仲が整理できないのだろうが、それなのに、
「よくあそこまで緻密な計算の元に、学説を作ることができたものだ」
と彼を知っている人は、皆口を揃えて、そういうに違いない。
特に一番そのことを感じているのは、妻のつかさかも知れない。インタビューを受けた時など、
「旦那さんとしてはどんな人ですか?」
と私生活のことを聞かれることがあったが、よほどこのことを言いたいと思っていたが、さすがに名声を手に入れた学者のことを、ディするわけにもいかないだろう。
だが、実際には、モノが捨てられず、はやの仲は荒れ放題だった独身時代の部屋を思い出すと、気持ち悪さがこみあげてくるくらいのつかさだった。
彼にそのことをいうと、
「いいじゃないか、俺の部屋なんだから、別に迷惑を掛けていない」
と言って、却って怒らせることになる。
要するに、彼にはモノを捨てられないということ、そのために部屋が荒れ放題になっても、それが悪いことではないと思っているのだった。
人に迷惑を掛けているかどうかは、相手がどう感じるかということなので、当人が決めることではないように思うが、川北氏の言っていることもあながち間違っているわけではない。
「子供の頃に、親からいろいろ捨てられたんだよ。いるモノ、いらないモノ関係なくね。だから俺は、どんなものでもいつ必要になるか分からないじゃないか。その時はいらないと思っても、後で実は必要だったと思いたくはないんだ。そんなことで後悔するなんて、くだらないことなんだけど、実に重要なことなんだ。だから、それなら最初から手を付けなければいいという考えなんだ」
と言っていた。
この考えにも賛否両論あるに違いない。
「最初から整理しておかないから、後で探す時、どこにあるか分からなくなる」
という考えもなるほどと思えるのだが、やはり勝手に捨てられたという意識がトラウマのようになっていることで、捨てることの恐ろしさを最初に知ってしまったことで、どうしてもまた同じ思いをしたくないと思うことで、モノが捨てられないのだ。
今では、断捨離というものが流行っていて、少しでも身軽にしておこうという考えがあるようだが、どうにもその考えもできる人、できない人、さまざまだろう。できない人は一律に絶対にできない方にあり、できる人は、絶対にモノを減らしておかなければいけないと思っている人、なるべく少ない方がどちらかというとマシだと考えている人、さまざまであろう。
断捨離とモノを捨てられなくて、頭の中が混乱している人とは同一次元で解釈してはいけないのかも知れない。
断捨離をする人でも、物持ちのいい人もいれば、モノを捨てられないからといって、決して頭が混乱していない人もいれば、断捨離に邁進する人もいる。きっと、何かのきっかけで、それまで見えなかった向こう側が見えるようになり、その瞬間に壁がなくなってしまったかのようなそんな感覚になるのかも知れない。
混乱している頭を整理するのを、頭の中の断捨離のように思っている人もいるだろうが、そうではない。頭の中は意外といろいろなものが入るだけのスペースは半永久的な大きさとして持っているのではないだろうか。
だから、どんなに記憶を封印しようが、記憶の封印には限度がないかのように思われる。だから、断捨離をしても、ある意味、意味がないのではないだろうか。頭が混乱するのはモノに対してスペースが足りなくなった時、融通が利かなくなることで起こる混乱ではないかと思う。
混乱が起きるはずもない大きなスペースであれば、断捨離などする必要は最初からないのではないだろうか。