短編集119(過去作品)
――どういうことなんだ――
疑問だけが脳裏に残り、自転車があった場所に戻ると、確かにタイヤの痕跡が残っている。消えた自転車の行方も気になったが、角を曲がっていった彼らがどこへ行ったのか気になった。まるで軍隊のように一糸乱れぬ行進は、今までなかなかお目にかかることのなかったものだった。
一度、学校から自衛隊を見学に行ったことがあったが、その時の一糸乱れぬ行進に似ていた。皆同じ迷彩服、肩には銃を抱え、行進している。軍隊も自衛隊も知らない永吉にとって、実に鮮烈な光景だった。
先ほどの肥満体の連中を見ていると、空気が飽和であることに気付いた。なるべく彼らに近づきたくないと思ったのは、同じ空気を吸っていても、彼らの肺活量に及ばないので、近くにいれば、空気が薄くなってしまうと思ったからだ。もちろん錯覚には違いないが、そう思わせるほど、見事な肥満体の集団であった。歩いていてもミシミシと足音が聞こえてきそうで、彼らが消えた後を追いかけてみたいという衝動に駆られてしまったのも、無理のないことだった。
角まで歩いてみた。
彼らがあっという間に角まで達したと思っていたので、すぐに辿り着けるだろうと思ったが、なかなか近づくことができない。却って遠ざかっているかのようにも思え、角にある電柱が歪んで見えてくるほどだった。
電柱の中心部分だけが腫れ上がっているように見え、根元の方がやたらと遠くに感じられた。その錯覚のせいで、角までなかなか辿り着けないことに最初は気付かなかった。
錯覚を利用した絵を見たことがある。大木の切り株に浮かんだいくつもの円が年輪のような形をしている絵に、中心部、上半分くらいのところと、下半分くらいのところにそれぞれ平行線になるように引いた横線を見ると、どうしても、上と下が直線には見えてこない。これこそ錯覚を利用した絵である。
円の特性上、丸みを帯びて見えてくるのであるが、平面を見ているはずなのに、立体に見えることもある。これは錯覚だということが意識として分かっているので、意識を錯覚によって惑わされないようにしないといけないという無意識の感覚が与える相乗現象ではないだろうか。
電柱の向こうまで行くと、急に身体が軽くなったような気がした。精神的に落ち着いてきた気がしたが、空腹に襲われた。
ただの空腹ではなく、指先の痺れを伴うもので、空腹なくせになぜか睡魔も襲ってくる。
――夢を見ているはずではないのか――
さっきまで感じていた夢の感覚、睡魔を感じることで、何かおかしいと感じ始めた。
――夢の中でさらに眠ってしまったらどうなるのだろう――
まるで禅問答のようだが、真面目に考えてしまった。
「目が覚めたら、死んでおりました」
という、新作落語のネタを聞いたことがあったが、それこそ同じような感覚だ。さらにどこかの観光地に家族で旅行した時、三本の湧き水があり、
「一杯飲みと一日、二杯飲むと一年、三杯飲むと、死ぬまで生きられます」
と言って、笑わせていた観光案内の人がいたが、まさしくそんな感じだ。旅行先ということで、精神的に余裕があったが、まともに聞けば笑い話では済まされないかも知れないブラックユーモアである。
もし、夢を見ている時に夢を見ると、どうなるかということを前にも考えたことがあった。その時は、そう、
「結局、夢の中で眠りに就いた瞬間に、目が覚めるのかも知れない。普段目が覚める時も同じことで、目が覚めるためには、夢の中で寝てしまうことが必要で、寝てしまうから、目が覚めてから夢の中での出来事が思い出せないのかも知れない」
と感じたものだ。
夢の中の妄想は留まるところを知らない。
さらに歩いていくと、少しずつ人とすれ違うようになった。すれ違う人々のすべてが肥満体であり、見ていて見苦しい感じがしてくる。
それでも最初こそ、何か臭い匂いが漂ってきそうな予感があったが、よく見ると清潔感に溢れている。そういえば、ブタは近づくと匂いがきついが、彼らほど清潔な動物はいないとも聞く。それと同じではないか。
そう考えると、見えている肥満体の人たちに愛着が感じられるようになる。女性はグラマーに見えてきて、男性は空気膨れのような愛嬌を感じるのだった。
この世界では、これが普通であって、肥満こそが美の追求なのではないだろうか。自分の知っている世界と違う世界を覗くのは、今までの美的感覚が狂ってしまうことを意味する。
だが、夢というのが潜在意識によるものだと考えるのであれば、肥満ということに対して永吉の意識が入り込んでいるに違いない。
永吉は決して肥満というわけではない。だから今まで肥満に対して意識をしたことがなかった。だが、今まで好きになった女性のほとんどが、少しぽっちゃりした感じの女性である。
――ないものねだり――
という言葉があるが、まさにその通り。自分が痩せているので、抱き心地はぽっちゃりした女性に感じるのであろう。包容力を身体全体で感じたかった。
だが、肥満となればまた別である。過度の想像力が夢の中でさらなる欲求を叶えさせようとしたのかも知れない。そこに限度はないものだろうか。永吉は不思議な感覚に襲われていた。
それとも、肥満に対して、何か自分の中で意識があるのだろうか? 好きな女性のタイプへの意識ではなく、自分自身が肥満に近づいているという意識である。
最近、少し神経質になりすぎていた。会社では上司から嫌味を言われることも多く、疲れを感じていた。永吉の会社は、アミューズメントパークの会社で、彼は企画部に所属している。
いろいろな企画立案を求められるが、最初の方こそ、思ったよりも発想が柔軟に出てきたものだが、ここ最近は、どうもアイデアが切れてきてしまった。アイデアが出まくっている時は、自分でもビックリするくらいに頭の中が玉手箱になっていたもので、箱の中身を見ることができなかった。見れないのをいいことに、アイデアはどこまでも豊富だったのだ。
箱の大きさからは想像もできないほどたくさんのアイデアが埋もれている。表に出すと大きくなるようなもので、箱の中で、その一つ一つは微粒子のようなものかも知れないと思ったこともある。
大きさに違いはなく、箱の底に穴が開いていて、そこからどんどんアイデアがどこか別の世界から運ばれてくるものなのかも知れないとも思ったりした。
だが、今はハッキリと箱の底まで見えている。何も入っていないのだ。底に穴が開いているわけでもなく、微粒子があるわけでもない。正真正銘、中に何も入っていない空箱であった。
空箱であることを意識してしまったら最後、今度は普通に出てきそうなアイデアさえも出てこなくなってしまった。玉手箱が一転、見えるはずのものすら見えなくなってしまい、さらに記憶力の低下が襲ってきた。それはまるで今まで玉手箱の効力に縋っていたために襲ってきた副作用のようなものに見えてくるのだ。
――この世界の彼らの身体の中には、何かが満ち溢れているに違いない――
今まで身を削ってアイデアを出していたわけではないと思っていた永吉だったが、思い返してみれば、入社当時から比べて、かなり痩せ細っていた。やつれてしまったといっても過言ではないだろう。
作品名:短編集119(過去作品) 作家名:森本晃次