短編集119(過去作品)
湯気の合間から見える緑色の液体。そこに写っている自分の顔は緑色に染まっていた。色がついた液体を覗き込んで、自分の顔を見ても、色がついているという意識にはならない。しかし、その時の自分の顔は、明らかに緑色の顔が表面が緑色の液体に写っているという意識しかなかった。
思わず顔を抑えてみる。
両頬を手の平で抑えて、少し下にずらすと、ずらした部分だけ白くなってくるのが分かった。そのまま顔全体を手の平で覆って、朝起きて顔を洗う時のように必死で顔をこすってみた。
「きっと、青い色が抜けるだろう」
という思いの元にである。
覗きこんで見えた自分の顔は、確かに緑色が取れていた。
「よかった」
と思って安堵で胸を撫で下ろしたその時、顔を上げると、そこには自分の知らない世界が広がっている。
だが、本当に知らない世界なのだろうか。最初に井戸を見つけた時とまわりの様子が変わっている。
最初に見つけた井戸は、まわりに森があった。夜ではないと思ったが、あまりにも深い森だったために、日の光が完全に遮断されてしまって、光が届いていなかった。最初、井戸の緑は森の緑だと思ったからだが、考えてみれば、森に緑を感じたのと、井戸の水面に自分の顔を写した時に感じた顔面の緑とは同じものだったようにも思う。
井戸の奥から浮かび上がってくる緑色の液体は、次第に沸騰しているように見える、煮えたぎった表面から出ている湯気は、次第に大きくなって、玉手箱のように永吉の顔を覆いつくしていた。
ドロドロとした液体に包まれたような気がした。一瞬息ができない感じがしたが、次の瞬間には、心地よさがあった。何かに包まれるという感覚、男にはこの上ない心地よさである。
意外と暖かく感じた。母親の胎内の羊水にでも浸かっているかのようだ。男が何かに包まれたいと思う感覚は、すべて母親の胎内に帰りたいという願望が作り出す幻影なのかも知れない。
ワームホールが時間を遡るものであるとすれば、母親の胎内から始まった自分の歴史が原点に帰ろうとする本能を手伝っているに違いない。遡る歴史の原点、そこに行き着くまでに感じる時間はあっという間である。
穴に落ちたという記憶もなく、穴から湧き出たという意識もない。それなのに、ワームホールを覗いては、その周辺の景色が一変しているのはどうしたことだろう。緑色に染まっていた森はすっかり枯れ果て、太陽の日差しが差し込んでくる。眩しいのだが、暑さは感じない。吹いてくる風に肌寒さを感じる。真冬ではないが、そろそろ春が近いことを感じさせた。
身体を起こして、とりあえずまわりの光景が気になり、森の表に出てみた。なるほど知っているような光景なのだが、自分がいた世界とは少し違っている。
小さい頃に友達とよく一緒に寄った駄菓子屋があった。当時、流行っていたローハンドルのサイクリング車にミニサイクルと呼ばれる、いわゆる「オバちゃん自転車」が綺麗に整列して並んでいる。
自分の意識では、自転車の止め方など、それほど意識していたわけでもないので、かなり乱雑に置いていた記憶があったが、よく見ると、確かに自分たちが止めていた止め方と同じである。意識の中にある過去への思いは、かなり整然としたものなのだろうと感じさせた。
小学生の頃に感じた社会は、どこか汚れていて、汚れているのが普通で、汚れていないと却って不自然に感じられた。工場の煙突はひっきりなしに煙を吐き出し、雲が煙によって形成されることは、あまり気持ちのいいものではないので、意識して見るまでもなく分かっていた。
春が近づくと、黄砂が飛んでくる。ちょうど三月に入った頃だろうか。電車の窓、バスの窓には、黄色い埃が付着していた。折りしもその時期に雨が多かったこともあって、窓ガラスは見る影もなかった。晴れていれば晴れているで、洗濯物などの被害はかなりなものだったに違いない。サイクリング車とミニサイクルのサドルの上に黄色い埃が舞っているのを見ると、黄砂が飛んでいたことを示している。しかも、かなりな量なので、子供たちが店の中に入ってから、付着したものであることは分かりきっている。
思わず店の中を覗き込むと、思ったより静かだった。自分たちが子供の頃といえば、当たり外れの一喜一憂で大きな声を出していたものだ。もっとも、当たり外れの一喜一憂は子供に限らず大人もそうだった。子供はそんな大人を見て育っているのだ。
高度成長期は貧富の差が歴然と目に見えていた。
高級住宅街に住んでいるセレブな人たちがいるかと思えば、まだまだ部落扱いされ、差別の対象となっていた人たちもいた。時代は誰にでも平等ではない。同じ時間を過ごしている人であっても、まったく違った顔を見せるに違いない。だが、子供たちを見ていれば大人が分かる。それは、子供時代に、自分がこの時代を過ごしていたからだ。
駄菓子屋を抜けると、赤い郵便ポストが見えた。電柱の横に立っていて、
――そういえば、郵便ポストの貯金箱を持っていたな――
ポストの赤を見ると、お金の溜まる楽しみを思い出す。次第に重たくなっていくのを嬉しく思ったものだ。所詮子供が溜めるのだから大した金額ではない。母親の肩を揉んであげて、そのお小遣いとして毎回五十円をもらっていたが、塵も積もれば山になるのを思い浮かべてほくそえんだものだ。
駄菓子屋から子供たちが出てくる。
――おや?
自分の目が悪くなったのかと一瞬疑いたくなったほどであった。子供たちは一様に肥満体である。クラスに数人ほどいた肥満体というと、いじめっ子のイメージが強かったので、あまりいいイメージはないが、ここまでたくさんいると、今度は気持ち悪さを感じる。
鼻で息をしている感覚で、まるで力士を思わせる。そのくせ服装がピチッとしたものを着ているわけではないので、皆肥満体の服装なのだろう。
先ほどまで誰も喋っていないと思ったのは、どうやら気のせいだった。口はパクパクと動いていて、確かに声を発している。ハスキーというにはあまりにも消え入りそうな声で、超音波でも出ているのではないかと思わせるほどだ。その超音波を認識できる世界なのだと見ていて感じた。
逆に言えば、彼らが永吉のいた世界に行けば、その世界の人の声を認識できるかどうか分からない気がした。ひょっとして周波数が違ってまったく聞こえないかも知れない。まるで宇宙人と話をしているような感覚である。
子供たちは永吉を見るなり、その表情には、見下す雰囲気が見られた。体格がいいので、永吉のような細身の男性に対しては威圧した表情をしてみたいと思う子供がいても仕方がないとは思うが、皆一様に見下した視線である。
――失礼なやつらだ――
と思って、見上げるようにしたが、彼らに臆するところは何もない。
永吉は彼らが過ぎ去る姿を横目に見て、さらにその背中を角の向こうに消えるまで追いかけ続けた。彼らは振り返ることもなく、礼儀正しく行進していく。
「待てよ?」
さっきまで店の前にあった自転車、あれは彼らのものではないのだろうか?
そう思って、店の方を振り返ると、さっきまであったはずの自転車が一つ残らず消えていた。誰も店から出てきた気配もなく、自転車に乗っている音も聞こえなかった。
作品名:短編集119(過去作品) 作家名:森本晃次