短編集119(過去作品)
女性と付き合えば付き合うほど、相手が見えてくる。学生時代に一度一人の女性と付き合ったことがあったが、彼女は、自分にとってあまりいい女性ではなかったように思う。
別れ方が悪かった。
何も言わずに、急に連絡が取れなくなった。電話をしても取り次げない。何がどうなっているのか知りたくて、彼女の学校の前で、帰りを待ち伏せていたことすらあった。
まるでストーカー行為である。
そんなことをすれば逆効果になるというのは歴然としているのに、その時には分からなかった。
「俺はここまで君のことを想っているんだ」
と言わんばかりの行為は、押し付けでしかない。
待っている間というのは孤独なものだが、必ず現れるという信念の元なので、それほど苦痛に感じない。それよりも、自分が納得せずに別れることの方が辛く、そこまで来ると、問題は自分の気持ちにある。
相手の気持ちをど返しし、自己満足にだけ浸ってしまう。だが、自己満足でも得られれば、次へのステップになるのだ。それでもショックが尾を引き、なかなか立ち直れないのは、自分の中で画している一線があるからに違いない。
そう思ってこの夢の世界を見ていると、彼女が以前付き合っていた女性に見えてきた。だからこそ、意識が入ってしまったに違いない。
「永吉の好きな女性のタイプって、どんな感じの女性だ?」
と聞かれて、最初に思い浮かべるのは、いくら別れてしまったとはいえ、最初に付き合った学生時代の彼女だった。最初に好きになった女性が自分の好きな女性のタイプになるということは必然で、元々なかったタイプが、最初に好きになった人によって完成させられる。その人の残像が、ずっと残っていくのだ。
「一番最初に好きになった人には、その後いくら誰かを好きになっても、敵いはしないよ」
と言っていた人がいたが、まさしくその通りである。
残像が残ってしまって、それを打ち消すほどの女性が現れない限り、理想の女性を取り逃がしたことを、ずっと後悔することになる。かといって、打ち消すほどの理想の女性が現れたとしても、彼女と結婚して一生を添い遂げようという気持ちになった時の、躊躇う自分を想像してしまう。
「好きな人の見たくないところまで見たくない」
この考えは誰にでもあるだろうが、思春期にそこまで考えることができるだろうか。どこか冷めた考えに思えなくもないからだ。
だが、この世界は、現実の世界と違っている。少し肥満体ではあるが、付き合っていた時に感じた彼女のイメージと雰囲気は変わらない。ましてや優しさを強く感じることで、癒しに繋がってくる。
次第に夢の世界が晴れてくるように思えた。夢から覚める瞬間を迎えているのだろうか。確かに夢から覚める瞬間というのは、意識できるものだ。覚めた夢の向こうにある現実は、一体どんな顔をしているのだろう。
夢というのは、目が覚める最後の数秒で見るものだと言われるが本当なのだろうか。身体に残る柔らかい感触、胸の感触だったり、太ももに絡み付いてきた足の感覚、すべてが夢として処理されてしまうことが口惜しい。
目が覚めるにしたがって、部屋の中が緑色に変色しているのを感じた。それが夢に入る前に見たワームホールの影響だということに、すぐには気付かなかった。夢から覚める時、無意識に夢の最後からずっと遡っていこうとするのは本能だろうか。だが、今回の夢は逆で、遡りながら、時間が進んでいくのを感じていた。まるで、時間軸に鏡があって、鏡に写っている自分が時間軸を遡っているのを意識しているかのようだ。
時間軸という考え方は、夢を見るようになって意識するようになった。まっすぐに前を向いている時は、時間軸など意識するはずもない。規則的な時間を性格に刻んでいく中で、波に飲まれたのを意識することもなく進んでいるのは、時間という流れに完全に乗っているからである。時間という概念が、無意識なものであるかどうか、どこまでが夢なのかという考えに酷似しているだろう。
目が覚めてから、ワームホールを思い出している。あれが本当に夢だったのかという疑問が目が覚めるにしたがって起こってくるからだ。目が覚めてからも残っている緑色の残像、それは時代の流れを意識させるものだった。
「どこかが違っているのかも知れないな」
身体を起こそうとしても、重たくて起きられない。金縛りにあったかのようだが、痛みが少しある。この感覚は足が攣ってしまった時のものだった。
本当に足が攣ってしまった時は、声を出すのもきついほど苦しい。呼吸困難に陥ってしまい、足を抑えれば少しは楽になると思って必死に足まで手を伸ばすが、身体が硬直してしまって、足に触ることができない。
――きっと、カチカチになっているに違いない――
意識としてはあるのだが、触れないことが悔しい。
息苦しい時間帯はすぐに収まる。呼吸を整えてしまえば、後は大丈夫なのだが、最近は安心していると、もう一度足が攣ることがある。
――夢の中で夢を見ているようだ――
足が攣ることで目が覚めることがある。
一度足が攣って、目が覚めた気がしたその時、もう一度足が攣って、そのせいで、また違う世界が飛び出したことがあった。その時、最初は分からなかったが、
――二重で夢を見ていたのだろうか――
と思えてならない。
二重で覚めた夢は、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるかのように、夢で見たのは、現実に限りなく近いものだった可能性が強い。
――本当に夢だったのだろうか――
と考える時がそれで、夢から覚めても、夢から覚めた気がしないだろう。それよりも夢の中に現実があるかのような錯覚を起こしてしまう。
――現実があって、夢がある――
これが本当の意識というものであるはずなのに、夢の世界が現実を超越してしまう概念は、まるで、絵が立体を超越するのと同じ感覚である。
「立体も正面から見れば、平面である。ただ、立体は、平面の後ろに隠れているだけで、どの世界にも存在しているものだ」
と言っていた学者がいたが、最初は意味が分からなかった。次元が大きければ、それはすべて低い時限から高い次元にステップするためのものが必要であるという考えに真っ向から対峙するものである。
いくら次元が低くても、高い次元の要素を兼ね備えていて、ただ隠れているという考えは、
「次元には境目などない」
ということを意味している。そういう意味ではワームホールという理念も、存在自体を否定することはできないが、いつどこで誰が陥るかも知れないと言えなくもない。
月の満ち欠けが影響しているはずだという学説を聞いたことがあるが、月の満ち欠けが現実に起こっていることで、次元という概念を生み出しているとすれば、次元は存在するものではないだろうか。だが、次元の階層に段階はなく、ただ、下の階層であっても、上の階層のものが存在しないわけではなく、隠れているという発想があるとすれば、我々の三次元にも時間を飛び越えるという概念が隠れているだけだという考えも成り立つのではないか。かなり乱暴な考えではあるが……。
永吉は、目が覚める間に、それだけのことを考えていた。目が覚める瞬間でしか、思いつかない発想に思えてくる。
作品名:短編集119(過去作品) 作家名:森本晃次