軽便鉄道「駿遠線」復活物語
横須賀につながる浅羽の田園風景の中、煙をたなびかせながら軽便汽車は東へと走る。
始発駅からの車窓風景は先ず、レトロな昭和の町並み、浅羽の田舎町、そして田園風景に、そこに、のんびりと走るボンネットバスが見えるならば、もう昭和の世界だ。この軽便のんびりトラベルは昭和へのタイムトラベルなのかもしれない。
その風景が少し変わってきた。
右側の車窓からは、遠州灘の防風林の松林が見える。そこは今、防潮堤の建設が進んでいる。東海地震に向けた津波対策だ。一方の左側は、田園風景の奥の小笠山が次第に近付いてきた。
その小笠山とは、北は東海道、南は遠州灘に挟まれた南北約10kmの、最高峰でも標高265mの低い山々が連なる丘陵地だ。古くは戦国時代末期、武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げたことで知られた高天神城の城跡があり、当時の面影が偲ばれる。
小笠山の南西方面には軽便鉄道の車両基地がある。
そこから、蒸気機関車の汽笛や蒸気の音、気動車の警笛の音、車両連結の音が、いつも聞こえてくる。更には煙の臭いもしてくる。ここは今、軽便マニアの最大の聖地になっている。
本線から車両基地には引き込み線があり、その最初の部分に転車台がある。その先は車両倉庫が並び、軽便車両の滞泊や整備が行われる。その車両倉庫の裏には、新しい機関車の研究開発が進められる研究所がある。
この車両基地全体も、レトロな昭和の雰囲気で、様々な機関車も含めて、軽便鉄道ファンを釘付けにしている。さながら、蒸気機関車博物館の様相を呈する。嬉しいことに、車両基地の見学は可能で、研究開発等の見学も許可されている。
じいじと孫は数か月前に、車両基地を見学した。
孫が行きたいと言うので連れて行ったのだが、途中からは、じいじの方が興味深く見入ってしまい、その勢いで、鉄道模型を買ってしまった。後で、孫から言われたのだが、機関車と客車を走らせるには、レールとコントローラーが必要だと言われ、多少の散財になっているが、ちょっとしたジオラマ作りに今、夢中だ。セカンドライフの趣味がまた増えた。
車両基地を見学した後、じいじと孫は、その入口周辺にある食堂街の中の、オムライスが美味しいと評判の店に入った。この食堂街には、昔ながらの喫茶店やちょっとした旅館もあり、連日、軽便マニアで賑わっている。
駿遠線が復活して以来、多くの旅行者やマニアが訪れてきた。ここまでは事業計画どおりの内容だったが、思ってもいない方々が来られるようになった。
それは、駿遠線の周辺では老人ホームの進出が増え、それに伴い関連産業も盛んになったことで、その入居者や介護の方、施設の方、納入業者、老人ホームに入った人を見舞う方々だ。そして、この分野のビジネスが始まり、そして拡大していった理由は全く想定外のものだった。
最初の理由は、日が暮れた後に耳を澄ませば、遠くの方から軽便の汽笛の音が聞こえてきて、安らかな気持ちで「今日も無事に一日が終わった」との気持ちになるとのことだった。
そして二つ目は、江戸より温暖で食べ物が美味いということから、晩年の徳川家康は駿府に居を移したが、その隣の遠州も同様に住みやすい場所ということなのだろう。日照時間は日本で一番長く、と言って、真夏日は少なく、冬の降雪は10年に1回くらいの割合で1cmも積もらない土地柄だ。ここ遠州地方での生活は厳しくない。
そもそも、駿遠線の駅舎も、客車も、バリアフリー設計で、車椅子は支障なく客車内に入ることが出来ることも、このビジネスを後押ししたようだ。
忘れてはならないのは、駿遠鉄道株式会社で働くメンバーには定年がないことだ。中には以前、駿遠線で働いていた方々はもう70~80歳代だが、ここに再就職された方もいて、皆、とにかく元気が良い。
一方で、全国から集まったマニアの方々で、そのまま社員になってしまった人も少なくない。いずれにせよ、皆、軽便鉄道が好きな人たちだ。ちなみに社是は「軽便を愛し続ける」だ。
駿遠鉄道株式会社では、半年に一度、全社員からアイデアを集め、1次選考で選ばれたアイデアは発案者が企画を進め、具体的なプランまで検討し、話題性、集客力、開催場所、収支、実現の難易度等の視点で評価され、承認されれば、イベントの年間計画に追加で織り込み、実現に至る。
このしくみの面白さ、それをプレゼンして実現に結び付けるビジネスとしての面白さ、それを求めて入社する老若男女、中には、アイデア持参で入社してくる人もいる。
各種イベントへの参加(乗車、撮影、等)を目的に、袋井市および周辺の市町村、全国から軽便ファンが集まる。中には、半世紀前の昭和を見たい平成生まれの人たちも、テーマパークの感覚で遊びに来る。彼らを受け入れる昔ながらの旅館が増えた。
作品名:軽便鉄道「駿遠線」復活物語 作家名:静岡のとみちゃん