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血の繋がりのない義姉弟と義兄妹

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 そう考えると、姉の存在自体が絶対的なものであり、しかも死んでしまったことで、忘れるのではないかと思う人とは一線を画していたのだ。
 自分に関わっている人が、自分の前からいなくなったりすると、ほとんどの場合は忘れてしまうことになるだろう。
 ただ、思い出そうとすれば、断片的にでも思い出すことができるのだから、記憶という場所に格納されているに違いない。
 そんな中でも、
「思い出そうとするんだけど、どうしても思い出せない人」
 というのはいるもので、その人は記憶の中でも封印することになる場所に格納されているに違いない。
 思い出すことで自分が苦しむと分かっていること、トラウマを持ったまま、消えてしまったことで、思い出すためのスイッチを切ってしまった場合などが、それに当て嵌まるのではないだろうか。
 由紀子に今そういう人がいるのかどうかは分からないが、今いないとしても、いずれ現れるような気がしてきたのだ。
 だが、中には絶対に忘れることのできない人だっている。忘れようとしても忘れられない人を思い出している時、自分はその人と一緒にいた時の意識になっているのではないかと思うのだ。
 それが姉の中でくっきりと表れているのであり、二重人格に見えるどちらかの性格お一つが、忘れられない部分を形成している箇所であると思うと、姉というのが、本当に純情なのだということが分かるのだった。
 だから、絶対的な存在である姉に対して敬意を表してはいるが、恐怖を感じているわけではない。
――私は姉に洗脳されているわけではないんだ――
 と感じるから分かることであって、死んでしまったことで我に返っても、姉に対して呪縛を感じることがないというのは、それだけ姉を大切に思っているからだった。
――お姉ちゃんが愛した恭一さんを見ていると、恭一さんが私の中に姉を見ていたとしても、恭一さんを好きになっていいのかしら?
 由紀子は自分が恭一に惹かれていることを分かっていた。
 それは、姉が亡くなってから、姉の市というものをどんどん受け入れられるようになってきた自分の中で、そんな気持ちに反比例するかのように、どんどん膨らんできたものだった。
 それはある意味、悪いことであって、自分を苦しめるだけのものであるのは百も承知のつもりだったが、そこまで強く罪悪感を感じないのは、姉が許してくれているという、都合のいい解釈からなのだろうか。
 今までの自分の考え方の姿勢が、
「自分にとっての立場から相手のことを考える」
 という立場になっているということを、この時初めて気づかされた気がした。
 人に対して気を遣うということは、自分中心に相手を見ているから感じることで、中には、
「人から気を遣われることを嫌がる人もいる」
 と訊いたことがある。
 どちらかというと、由紀子も自分がそうだったのではないかと思うようになっていた。つまり、
「人に気を遣っているということは、相手のことを考えているわけではなく、自分が相手に、いや、それ以上にまわりから他人のように見られながらも、どのように見られているかということまで考えてのことなんだ」
 と思うようになったのだ。
「まわりの人の視線にも気をつけなさい」
 とよく言われていた。
「壁に耳あり障子に目ありって言葉があるでしょう? いつ誰が見ているか分からないから、まわりの人が見ても、気分を害さないような行動をとらなければいけない」
 ということであったのだろう。
 実際に相手に気を遣っている時に、まわりにまで気が向くかというと、難しいところである。逆にまわりにまで気を遣える人をすごいと思っていたが、実際にはまわりの目が中心であり、気を遣っているはずのその相手のことを考えているわけではないような気がする。まわりのことに気を遣えるようになっていれば、相手にも同時に気を遣えていることになっていると思っているのであれば、それは大きな見当違いなのではないかと思うのだった。
 由紀子が大学時代に友達の紹介で、お付き合いのようなことをした男性がいた。由紀子はどちらかと言えば天真爛漫なところがあり、たまに無意識に言った言葉が相手を傷つけることもあったが、かと言ってそれは、まだ十分に許せる程度である。それも彼女の友達から見れば、
「愛嬌みたいなものね」
 と言われていたが、由紀子になかなか彼女ができないのは、そんな天真爛漫で、無神経なところがあるからではないかという話になり、
「それなら、私が彼氏を紹介してあげる」
 と言って、一人の友達が紹介してくれた。
 その人は、大学内でも一種の堅物と言われているような人で、堅実なところはいいのだが、冗談が通じないところもあり、その人も彼女ができなかった。友達にとっては、幼馴染で、彼の堅実さはそんなに悪いものではないと分かっていたので、由紀子を薦めてきたのだろう。
 だが、どちらも異性と付き合った経験がなかったことと、根本的な性格の違いから、うまくいくはずもないものをくっつけようとしたという構図そのものだったようだ。
 由紀子にとって信じられなかった発想は、
「彼から、自分が気を遣っていないということを責められたこと」
 だったという。
 面と向かって、
「君のように相手に対して無頓着で気を遣わない人は初めて見た」
 とまで言われると、さすがに天真爛漫な由紀子でも耐えられるはずもない。
「なんで、知り合ってすぐの人からそんなことを言われなければいけないのか? 人前でそれを公然と言ってのけるあの人こそ、気を遣っていない証拠じゃないの」
 と怒りをあらわにした。
 確かにその通りだ。いかに自分の思った通りの行動をとってくれないとはいえ、公衆の面前で彼女候補の人に対して罵声を浴びせるというのは、まさに、相手に気を遣っていないということになるのではないか、
「どの口がいうって感じよね。あきれ果ててモノが言えないってこういうことなのかも知れないわ」
 と、別れは最悪だった。
 だが、この付き合いのおかげで、由紀子は何となく人に気を遣うということがどういうことなのか分かった気がした。あくまでも人に気を遣うのは無意識である必要がある。最初から意識してしまうと、相手に見返りと求めてしまったり、却ってきた相手の気遣いに対して、
「大きなお世話」
 と感じることもあるだろう。
 相手が何か求めていることに対して、自分が気を遣っていると思ってしまうと、うまくいきかけたことも、見返りを求めてしまい、お互いに相手のことを思うことが、すべて見返りを求める「気遣い」という言葉に繋がっていくのではないかと思うのだった。
 だから、大学時代から由紀子は「気遣い」という言葉が嫌いだった。あくまでも気を遣うのであれば、無意識に自分がしたいからしているんだということであるべきだと思うようになった。
 ちなみに彼は、由紀子に紹介してくれた友達と、由紀子に紹介したことで、自分の本当の気持ちを知ったその友達が、彼に告白したことで、今では結婚を前提に付き合っているということだった。
「収まる鞘に収まったということだね」
 と言って笑っていたが、実際に由紀子も安堵したのであった。