血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
「あ、いえ、大丈夫よ。ちょっとお医者さんを呼んできますね」
と言って、その場から立ち上がり、逃げるように病室から離れた。
これは本能的な行動であり、咄嗟に取った緊急避難のような気持ちだった。幸いにも由紀子の行動に対して恭一は興奮状態にならずに済んでいた。まだそれだけ意識がハッキリとしていない証拠ではないだろうか。
由紀子は急いで医局に向かい、彼が意識を取り戻したことをいうと、さっそく医局から岡崎教授に連絡を入れてもらい、岡崎教授が医局迄来てくれた。その間、病室には担当看護師が入ってくれることになり、ますは教授から恭一の目覚めについて聞かれたが、こちらも話したいことであっただけに、気持ちの一致に由紀子は安堵したのだった。
「どのようなご様子ですか?」
と訊かれて、一度目をカッと見開いたことや、最後には眩しそうな目で自分を見つめ、自分のことを姉だと勘違いしていることを説明した。
「なるほど、意識としては、ある程度ハッキリとしているようですね」
という岡崎教授に対して、
「じゃあ、彼は私のことを姉だと思い込んでいるんでしょうか?」
という由紀子に対して、
「これは私の意見ですが、ツバメなどのひな鳥が、『最初に見たものを親と思う』という現象に似ているのではないだろうか? いわゆる『刷り込み』という現象なんだけど、今の彼はまさに生まれたままの子供のような感覚になり、少しずつ覚醒しているのかも知れない。ただ、あなたをお姉さんだと思った感覚は、少なくとも今日の間はあるかも知れませんね」
と教授は言った。
「じゃあ、私はどうすればいいんです?」
と教授に詰め寄ると、
「今日はこのまま、お姉さんのつもりで接してあげてください。とにかく今は彼の感じたことや思っていることを、否定するということが一番悪いことだと思いますからね」
と言った。
「分かりました。じゃあ、そのあたりはうちの家族にも話しておきます」
と言って、由紀子は母親と父親に電話を入れて、今の状況を話した。
その時に一緒に、
「今度からお見舞いや付き添いにそれぞれ単独でくる時は刻々と事情が変わっているかも知れないから、まずは医局で確認をとってから病死つぃに向かうこと」
という取り決めを行った。
この話は、その後、功を奏するようになるのだが、由紀子はこれくらいのことが気の利く女性であるということを、しっかりと認識しておいてほしいのだ。
さっそく病室に戻った由紀子は、ボーっとしている恭一を見つけた。恭一がボーっとして表を見ているのを見た時、どこかホッとした気分になったのは、少し変な気がした。本当であれば、心の中で、
――人の気も知らないで――
というのが、本音の気がするのに、心の底からホッとした気分になっているのは、相手が恭一だからなのか、それが分からなかったのだ。
「恭一さん、ごめんなさい。お待たせしちゃったかしら?」
と言ったが、
「そんなことはないよ。僕はこうやってボーっとしているだけだから」
というではないか。
「そこから何が見えるんですか?」
と聞くと、
「いや、何が見えるということではないんだよ。一人でいると、いろいろ想像できるでしょう? それが楽しいだよ」
というではないか。
「私も、一人でいて、いろいろ想像するのが好き。昔のこととかを思い出していると、時間が経つのを忘れてくるくらいだわ」
という由紀子に対して、
「昔のことか。ほとんど忘れてしまった気がするな。でも、それは忘れてもいい記憶で、ある意味忘れないといけない記憶なんじゃないかって思うんだ」
と恭一がいうと、
「怖い夢だから?」
と訊きなおすと、
「違うよ。怖い夢というのは、忘れようとしても忘れられるものではない、自分で何とかできるものじゃないと思うんだ。普段の日常の中の意識、それは毎日積み重なっていくものだろう? それをうまくコントロールできないと、意識の容器というのは、限られた大きさしかないんだから、どこか記憶という容器のように移しておかないと、消してはいけない記憶まで消してしまうことになるんだ。皆そのことを考えながら生きているんじゃないのかな?」
というではないか、それを聞いて由紀子は、
――どうやら、今この人は、普通の人が無意識に行ってきた、蓄積された記憶を移す容器の捜査を自分で無意識にできないことで、意識的にしようとしているんだ。ひょっとするとその部分が今回の自殺をしたことで弊害となって表れているのかも知れない――
と思った。
これが、教授の言っていた、
「記憶の一部分が欠落している」
ということと何か関係があるのではないかと思った。
しかし、ここは先生の言っていた通りに、彼に話を合わせるしかなかった。
「そうだね、意識という容器だって、限りがあるから、移してあげないとパンクしちゃうわよね」
と話した。
由紀子は、自分の中で、実は無意識のうちに、何も考えていないと思っている時、我に返ると、その時何かを意識していたというのを感じることがあるが、その時にはその意識は飛んでいた、思い出そうとしてはみるが、思い出せない場合は、すぐにそれを思い出そうとはしない、なぜならいくら思い出そうとしても、思い出せるわけがないと思うからだった。
由紀子は、無意識に何かを考えるということが好きだった。無意識なのだから、好きだと感じるのは、我に返って、その時に何かを考えていたと振り返った時に、その場所にいる自分が好きだというのが、本音だと言ってもいい。
「唯子は、いつも何かを考えていることが多いと思っていたんだけど、僕はそれが僕の考えと一緒であってほしいと思っているんだ。そう思えたから、僕は君のことが好きになったんだよ」
と話してくれた。
由紀子は、彼がそんなことを思っているなど、考えたこともなかったが、
――姉はどうだったのだろう?
と、姉のことを思い出した。
姉の性格を考えてみると、どちらかというと、分かりにくい性格だったような気がする。それは、時と場合によって、言っていることがコロコロ変わることがあったからだ。
「お姉ちゃん、この間同じ話をした時に違うことを言ってたよ」
と由紀子が指摘するほど、話に食い違いがあった。
それを由紀子は、
――お姉ちゃん、前に言ったこと、忘れてるんじゃないんだろうか?
という意識だった。
姉の方も、妹の指摘に、反論するでもなし、納得がいっているのか、逆らう様子がなかった。
自分でも認めているということだろうか?
そう考えてみたが、今から思えば、最初にピンとくるべきことだったのだろうが、その人の短所になることだということで、姉には当てはまるはずがないと考えたことが、意識させないようにしたのかも知れない。
その感覚というのは、
「二重人格ではないか?」
ということである。
これだと、一気に理屈も分からなくもない、その時々で別の性格が顔を出すのだから、当然二重人格だという考えが最初に浮かんでくるはずなのである。
だが、妹から見ても、
「絶対的存在」
だった姉を美化して考えるのは当たり前のことではないだろうか。
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次