血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
「ええ、どうやら、毒を煽ったようなんですが、何とか胃の洗浄と手術によって一命はとりとめることができたようです。毒の種類までは分かりませんが、何か農薬のようなものではないかと思われます」
と訊いて、
「確か、坂出さん、田舎が農家だというようなことを言っていたような気がしたんですけど」
と、由紀子は言った。
それは確かに間違いのないことだった。姉からも聞かされたことであったのを覚えている。
「私、このまま結婚して、彼女の実家に行けば、農家の嫁になっちゃうわ」
と言っていたので、
「嫌なの?」
と聞くと、
「複雑な気持ちね。やっぱりちょっと怖い気もするのよ」
と言っていた。
だが、それも今から思えばまんざらでもないようなことを言っていたようにも思う。それだけ恭一のことを愛していたと言えるのだろうし、恭一に興味のあった由紀子にとっては、姉ののろけにしか聞こえなかったくらいだった。
「ところで、彼はまだ意識が戻っていないんですか?
と母が聞くと、
「ええ、手術は成功して一命は確かにとりとめていますけども、元々交通事故で入院していて、その時婚約者の方がお亡くなりになったという精神状態からの思い余っての自殺でしょうから、意識を取り戻しても、かなりの精神的なショックが残ると思うんですよ。そのことの方が私としては心配しているんです」
と医者が言うと、
「何か後遺症でも残るということでしょうか?」
と母親が訊いた。
「何しろ、交通事故では命が助かったと言っても、腕が動かないという障害者になった。会社には残れるそうなんですが、実際にまだ身体を動かして仕事をしたことがないわけですよね。特に器用な人だということは伺っていますので、それが仇にならないかと心配もしているんです」
「どういうことですか?」
「そういう人って。健常者だった時のことを身体は覚えているものなんですよ。なるほど慣れてくれば器用に立ち回れるかも知れませんが、それまでは覚えている身体が言うことをきかないというジレンマを抱えなければいけない。これは不器用な人には分からない感覚なんだろうと思います。だからまわりは、『あなたは来ようなんだから、時間が経てば何でもできるようになる』と言って励ますと思うんです。でも、それが却ってその人を追い詰めることになってしまうということを分からないんですよね。これって励ます方も励まされる方にとっても、どちらも焦ってしまうことになって、結局慰めてくれているのに、『人の気も知らないで』という思いを抱かせ、下手をすると、恨みに思われてしまうという悲劇を引き起こさないとも限らないんですよ」
というのだった。
さらに医者は続ける。
「彼はそれを悟っているのかも知れない。信頼したい相手からプレッシャーを与えられるような人生、しかも婚約者である一番愛する人はもうこの世にはいないと思うと、死にたくなるのも仕方のないことなのかも知れません。だから、これからの彼に対しては、身体面だけではなく、精神面のケアーも大切になってきます。何しろ、彼の中には、自殺をしようとして死にきれなかったという思いも大きなプレッシャーになるんですからね」
としみじみと語った。
「要するに生きがいを失くしたということになるんでしょうか?」
と母親が聞くと、
「はい、その通りです。だから、自殺しようという気になったんでしょう。だからと言って、生きがいなどというのは、そう簡単に持てるものではありません。人というのは、自分の成長を通して、生きがいを見つけてきたものだから、一度失った成長は、そう簡単に取り戻せるものではない。しかし、逆にいえば、何かのきっかけで取り戻すこともできる。なぜなら、身体は成長を覚えているんですよ。今はショックやトラウマが多くて、自分が成長していたことに自信を持てないでいるんですが、一度きっかけがあって取り戻すことができると、そこからは新たな生きがいを見つけることも難しくはありません。そこで一つお知らせしておきたいことがあります。実は彼は一度だけ意識を取り戻した時がありました。今はまた少し意識不明に入っているんですが、それは、興奮状態だった彼を、鎮静剤で眠らせているということもあってのことです。そして、最初に目覚めた時の彼は、どうやら記憶の一部を失っているようなんです。目覚めた時にその意識があったようで、その憤りと、自殺をしようとした時の後遺症で、興奮状態になりました。ただ、ご安心ください。今度お目覚めになる時は、先ほどのような興奮状態ではないと思います。そして、たぶんですが、一度目覚めて興奮状態になったという記憶はないと思います。だから、皆さんも初めて目を覚ましたのだということで意思疎通の共有を図ってください。特に自殺未遂から目覚めて、しかも記憶の一部がないということで、かなり精神的に不安定な状態になっていると思いますので、付き合い方もかなり微妙になるのではないかと思います。そのあたりは、皆さんもご承知の上で、接していただけるとありがたいと思います」
というのだった。
「記憶を失っているというのは、どういう記憶なんでしょう?」
という母親の質問に、
「どのあたりの部分を失っているのかは分かりません。ただ、お目覚めになった時、いきなり頭が痛い素振りをしました。それは、記憶を失った人が記憶を取り戻そうとしている時の様子にソックリだったんです。人は通常、眠っている時は睡眠中の記憶を持っているので、目が覚めた時に、覚醒する形で記憶が戻ってくるんですが、自然に取り戻す記憶には苦痛は伴いません。一度失ったのか、記憶の奥に強引に封印してしまった、一緒のトラウマとなっているものは、思い出そうとする時、無理が生じて、苦痛を伴うものなんです。だからきっと彼も一部の記憶を失っているんじゃないかと思います。ある程度全部であれば、本人自体が思い出そうとする意識がなくて、苦痛は伴わないと思われるからだと言えますね」
と医者は説明してくれた。
「じゃあ、どうすればいいんでしょうか? 昔の話などはしない方がいいんでしょう?」
と聞くと、
「そんなことはありません。病状を何も知らないという状態でお話いただければいいと思います。ただ、皆さんがここに来られるまでに自殺をしてから彼がどのような状態だったのかということを知っていただいて、我々がその状態から判断したことをお話しているにすぎません。まずは、必要以上に驚かないでほしいという感じでお聞きください。それに今度目覚める時は普通に目覚めると思いますので、余計なことを彼に意識させないでいただければそれでいいんです。これだけが私のお願いになりますね」
「分かりました。肝に銘じます。ところで、いつ頃目が覚めるんでしょうか?」
と聞くと、
「そうですね。個人差もあるでしょうし、先ほどの興奮状態から考えると、あと数時間もしないうちにお目覚めになるとは思います。今は集中治療室に安静にしていますが、意識が普通に戻ってくれば、一般病棟に移せると思いますよ」
ということであった。
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次