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血の繋がりのない義姉弟と義兄妹

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「なかなか興味深い話ですね。でも、それを意識していても、今後デジャブが起こった時に、果たしてこの話を思い出せるかどうか、僕には疑問ですね。デジャブというのは一瞬感じるだけで、すぐにまるで夢だったのではないかというような意識になってしまう。そんなものなんじゃないですか?」
 というと、
「まさにその通りなんだ。でも、私は自分のこの意見を頭に抱いている人は、他の人に比べて、たくさんのデジャブを感じることになるような気がしているんだ。そのうちに、私のこの考えを証明してくれる人がどこかに現れるのを願っているんだけどね」
 という教授に対して、
「じゃあ、もっとたくさんの人にお話しされればいいじゃないですか?」
 というと、
「それじゃあ、まるで『下手な鉄砲数撃ちゃ当たる』とでも言わんばかりじゃないか」
 と教授は笑ったが、
「確かにそうですね。皆この話を結局自分の理屈で聴いてしまう。それだけに感じ方も人それぞれ、理屈が解明されていないことに対して、最初から土台が違う人たちをターゲットにしても、最初から立ち位置が違っているのだから、照明は難しいですよね」
 と恭一がいうと、
「そ、そうなんだよ、僕の言いたいのはそこなんだ。やっぱり、恭一君の考えは私の理論に共鳴しているような気がするんだ」
 と、初めて教授が恭一の考えと自分の考えが酷似していると感じていることを話した。
 もちろん恭一も、心理学の権威でもある岡崎教授の考え方に共鳴できていると言われると、これほど嬉しいことはない。
 ただ、自分には精神疾患があると教授は言っただへないか。確かに多くな問題ではなく、記憶の欠落が一部あるのを気にはしているようだが、それ以外はほとんど治っていて、だからこそ、教授はいろいろな話を自分にしてくれているのだと思っていた。
 それがまさか、教授が共鳴してくれていると思うのは光栄だと思う反面、教授という人を尊敬以外の何者でもないとしか見たことがなかったことに、いまさらながら思い知らされた気がした。
 恭一は、岡崎教授の中に、自分を見ているような気がしてきた。それは岡崎教授も自分の中に、教授を見ているような気がしたからだ。
 お互いに相手を透かして見ているような感覚に、
「自分を見つけたいのだが、そう思って自分側で油断をしてしまうと、教授に心の中まで侵入されてしまう」
 という、危機感のようなものを感じた。
 教授に対して全面的に治療ということに対して依存しているのは間違いないし、そうでなければ、自分の疾患が治らないということは分かっていたが、自分の心の中まで侵入してこられるというのは、話が別な気がした。
 不法侵入と変わりはないと思ったからだ。
 しかも、教授のような立場であれば、心理的に相手の心に侵入し、相手のことを知らなければ治療もできっこないと思っている。
 しかし、精神疾患を治すのに、本当に相手の心の中に侵入しなければ治療できないものなのだろうか。もしそうだとするのであれば、どこまで侵入できるかが大きな問題となってくる。
 いくら治療のためとはいえ、侵入できる人の心の中というのは、決まっているような気がする。それは倫理の問題とか、プライバシーなどという問題ではない。もっとリアルで切実な問題である。
 つまり、人の心の侵入すれば、侵入された方にその意識があれば、本能から相手を表に逃がさないように、結界を設ける二違いないからだ。入り込んでしまった自分がどこにも逃げることができずに、どうなるかというと、きっとその人の心の中に取り込まれてしまうのではないだろうか。
 オカルト的に考えるならば、撮りこまれた瞬間、その辻褄を合わせようと、その人がこの世に存在したという履歴をすべてリセットすることになる。
 つまり、彼を知っているすべての人から彼という記憶が消去され、しかも、その大きな穴を解消するために、皆が気持ちをリセットしようと試みる。つまり、記憶を消すところまでは見えない何かの力が働いているのだが、消された記憶の辻褄を合わせるのは、本人でしかない。
 それがいわゆる、
「デジャブ現象」
 として考えられていることだとすれば、結局そこに戻ってくるのであり、考え方が堂々巡りを繰り返すことになるのだが、この堂々巡りは実に理屈に合ったもので、唯一堂々抉りを正義のように考えられる心境になれるのではないだろうか。
 デジャブを悪いことのように思わず、懐かしさを感じるのは、そういう思いからではないかと、いろいろ考えているうちに恭一は思えてきたのだった。
 そんなデジャブのようなものを絵描きの彼女に感じたことで、小説もおのずと彼女を主人公にして書くようになった。まだ彼女のことをほとんど知らないのに、まるで何でも知っている中でもあるかのように、どんどん筆が進んで行く。
――俺って、ひょっとすると文才があるのかな?
 という勘違い迄してしまいそうだったが、思い立ったことをどんどん書き進めていかないと、すぐに忘れてしまうという問題gあったのも事実だった。
「小説は一気に書いてしまわないと、すぐに忘れてしまうんですよ。だから、何が大切なのかというと、集中力だと思うんですよね」
 と恭一は彼女にそう言ったが、その気持ちは言い聞かせている言葉でもあったのだ。
 恭一は小説家というものが、孤独であったり、人とあまりかかわりを持たないようにしている人ほど、名作が書けるということを理解できた気がした。
「人との時間が増えると、自分の世界に入り込んで妄想できる時間がそれだけ少なくなる。人とのかかわりを大切にした人は、逆に小説家には向かないのではないだろうか。つまり、そこに気持ちの矛盾であったり、ジレンマが生じてしまい、自殺を考える人も出てくる。考えてみれば、文豪と呼ばれる人たちに自殺者が多いというのも、このあたりが少なからず影響しているのではないかと思うんだ」
 と話した。
 絵描きの彼女は、
「私も絵を描くようになるまでは、絵描きというのが、目の前にあるものを純粋に書き写すだけのものだと思っていたんですよね」
 と言った。
「僕もそうだと思っていますけども」
 というと、
「実際に絵を描き始めると、全部が全部必要なものなのかって考えてしまうんですよ。つまり、必要な部分と不必要な部分が見えてくる。すべてをそのまま描写すると、必要なものだけではなく、不必要なものまで描かれていることで、見た人が、実物とは違うものが見えてくる。本人は忠実に書き写していたつもりなのに、出来てしまったものがまったく想像していたものと違っているんですよ。それはきっと、書く時はある程度点から描き始めますよね。でも、書きあがると線であったり、面で見るんですよ。そうなると、まったく違ったものに仕上がっているように思えて仕方がないんです」
 と、彼女はいった。
「じゃあ、大胆に省略した方が、より現実に近づくということですか?」
「ええ、理屈には合っていませんが、私はそうなんだろうと思っています。あくまでも、私の考えでしかないんですけどね」
 と言って、彼女は苦笑いをした。