血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
「人間は生れてくる時、親を選べないし、死ぬ時も自分で死を選べないという話を思い出しました。僕は、後者を自分で破ってしまいかしたけど、前世から来世に繋がっているということを考えると分からなくもない発想なんですが、そもそも、自分が生まれてきてから、今に至るまで、まったく生まれ変わったという意識はこれっぽちもないじゃないですか。それで、今の自分の行動が来世の自分に繋がっていると言われても、生まれ変わったら自分ではないわけなので、説得力なんてないわけですよね。要するに、どうして自分ではない来世で生まれ変わる人のために、今を生きなければいけないのかって気持ちにさせられる気になるでしょう?」
と教授は言った。
「ええ、まあ、そうですよね」
と曖昧に答えたが、恭一は必死で教授が何を言いたいのか自分の中で咀嚼して考えていた。
「人間は年を取ると、何もできなくなる代わりに、昔のことをよく思い出すというではないですか。それは先が見えているからだということもあるんでしょうが、結局最後には、すべてのことを思い出すのだと言います。感謝された時にはいい思い出として、恨まれたり反省したことは、辛い思い出として思う出すのだといいます。これこそ一種の天国と地獄と言えないでしょうか?」
と教授は話した。
恭一もその意見に概ね賛成ではあるが、全面的に賛成というわけではない、なぜなら、話の理屈がいまいち分かっていないからだった。
どこをどのように理解できていないのか、ハッキリとは分からないが、イメージとしてではあるが、
「この話を理解しようと思うと、一度自分の一生をすべて経験してしまわないと理解できない気がする」
というのだ。
しかし、一生をすべて経験するということは、次の瞬間には死んでいるということなので、このことを考える時間はないということになる。
それを教授に聞いてみると、
「それくらいの時間は、死ぬ時に用意してくれているんじゃないかな? つまりは死んでから生まれ変わるまでの間にどこかの場所があって、それまでそこにとどまれるとすれば、分からなくもない」
「要するに、今まで見てきた天国と地獄を自分で理解するための時間と場所という意味ですか?」
と恭一が聞くと、
「そういうことになるんだろうね。実は、死後の世界で、天国か地獄に行く前に立ち寄る世界があるという発想は結構いろいろ考えられているようなんだ。そこで、天国に行くか、地獄に行くかが決まるまで待機しているという発想もあれば、天国か地獄に行くのは自分一人でいくわけではなく、誰かを伴っていくことになるので、その人を待っているという発想だね。お互いに広いその世界の中で、二人は出会うことになるんだよ。もっとも、この発想は極々少数派の考えでしかないんだけどね」
と教授が言った。
「人は一人では生きられないとよく言われていたけど、死後の世界にもそういう発想があるんですね」
「この世では、その相手を自分で決めようとするけど、あの世では、相手が最初から決まっていて、それも。現世での行いが左右するという意識があるらしい。私にはこの話に対して、現世での行いが左右すると言った時点で、どうも胡散臭さを感じてしまったんだけど、これは私の考えすぎなのかも知れないとも思っているんだ」
という教授の意見であったが、恭一は、またしても、考えが袋小路に入っていくような気がしてきた。
「どうも頭がなかなか整理されていないせいか、よくわからなくなってきました」
というと、
「そうでしょうね。でも、今の私とこういう話ができるのは、今の状態のあなただからなんですよ。私はここまでの考えを他の人に話したことはありません、あなただからついてこれた話なんです。そのことだけは心に刻んでおいてほしいという気分になっていますよ」
と教授は言った。
その話を思い出しながら、恭一は今一人でいる自分の境遇について考えないわけにはいかなかった。
だが、一人がこれほど気が楽だということを、初めて知った気がする。人に気を遣うこともなければ、気を遣わないと気にする人の相手をすることもない。今までどんな人を相手にするのが嫌だったのかと訊かれたとすれば、
「気を遣わないと気にする人を相手にすることだ」
と答えるだろう。
気を遣うなどというのは、自分からするものではない、つまり相手にそれを求めてはいけないと思っている。あくまでもさりげなく、ただ無意識であれば、相手に気を遣っていると思わせても構わない。相手が気にする人であれば、却って下手に隠そうとすれば、あざとくなってしまい、変な印象を与えてしまって、誤解を受けることになるのではないだろうか。
何事も人間はさりげなく生きるのが一番なのではないだろうか。確かに人は一人では生きられないのかも知れないが、それでいて、人に頼ることを、
「甘えている」
という言い方をされるのも事実であり、これこそ誤解の元だと言えるのではないだろうか。
甘えてばかりいると、
「人は最後は、自分自身だけになる」
ち言われることになる。
「一体、どっちなんだ?」
と言いたくもなるというものだ。
同じ人が同じ相手に、ちょっとしたことで手のひらを返したように、正反対のことをいうのだから、言われた方は、何を信じていいのか分からない。要するに、人にアドバイスをするというのも、
「その人の勘がでしかない」
のである。
まともに信じてしまうと、バカを見るというのは、
「正直者はバカを見る」
という言葉に置き換えることもできるだろう。
例えば、おとぎ話や童話などで、教訓となるような話であっても、その捉え方で、いかようにも考えられるだろう。
「最初に来た人を食べようとした輩が、『後から来る方が大きくておいしい』と言って、その言葉を信じて、次に回す。そして次に来た最初よりもちょっと大きなやつが食べられそうになると、『次にまだ大きいやつが来る』と言って、三匹目の大きな奴が、その輩をやっつけてしまう」
という話があるようだが、ある人は、
「団結が大切で協力し合えれば、助かる」
というのが教訓だと思っていたが、別の人は、
「いいや、そうじゃない。この話は、正直者がバカを見るという話だ」
と、まったく正反対のことを言っていたという。
考えてみれば、それぞれ、反対の立場から見た話なので、まったく正反対の教訓があっても不思議ではない。ここで重要なのは、
「見る方向によって、まったく別の見方が出てくるのは必然なのだ」
ということも教訓ではないかということである。
つまり笑い話のようなこの話にこそ教訓があるという考えである。
人はそれぞれの立場あるから、それぞれ自分に違い立場から見るのも当然である。
この話のように、
「食べようとする側と、食べられたくないという側」
にそれぞれ言い分があり、正当性があるのだ。
食べようとする方は、相手を騙してでも食べなければ自分が生きていけないという正当性、食べられそうになっている方とすれば、どんなことをしてでも食べられたくはないというものである、
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次