血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
何よりも、岡崎教授についで、恭一の回復していく姿をずっと見てきた綾羅木家の人にとっては、不幸にも交通事故で亡くしてしまった娘の好きになった相手、つまりは、義理の息子になる相手だったのだから、その思いもひとしおだったはずだ。
由紀子にしてもそうだった。
自殺未遂を行ってすぐの頃は、
――このままだったら、どうなってしまうんだろう?
と意識と夢の境目が分からなくなっていて、どう接していいのか分からない時期があっただけに、最初の頃の危惧がまるでウソのように回復していく恭一を、暖かい目で見ていたのだった。
最初のあの時期の恭一は、今思い出しただけでも、まるで別人ではないかと思うほどだったのだが、その頃の恭一が嫌いではなかった。むしろ由紀子にとっては大好きになった時期だったのだ。
なぜと言って、
「あの時のような落ち着いた様子の恭一を知っているのが自分だけなんだ」
という強い思いが由紀子にあるからだ、
――あんな恭一さんを姉だって見たことないんじゃないか?
と思うほど、由紀子の知っている恭一とは明らかに違っていた。
元々、恭一のことが気にはなっていたが、姉の婚約者で、いずれは義理とはいえ兄になる人なのだから、好きになってはいけない相手だった。
しかし、姉は今やもうこの世にはいない。恭一が姉のことをまだ引きづっているというのは正直見ていて痛々しかった。それは、
「そこまで姉のことを好きでいてくれたんだ」
という思いももちろんあるが、
「姉がいなくなったことが、ここまでこの人を苦しめるなんて、しかも、この私では彼の気持ちを癒してあげることができないんだわ」
という憤りがストレスとなって、時として鬱状態にさせていることに気づいていた。
しかも、そんな鬱状態の自分をまわりの誰も気づいてくれない。
変に鬱状態だからと言って気を遣われるのも嫌ではあったが、自分のことをここまで誰にも気づいてくれないという思いは、由紀子にとって、これほど辛いものはないと初めて感じさせた時だったのだ。
まわりは皆幸せな姉に目が向いている。
――私は、姉の影に隠れて、誰にも意識されない、まるで道端に落ちている石のように、見えていても誰にも気にされないということをどのように受け止めればいいんだろう?
と考えていた。
確かに姉を隠れ蓑にすれば、ある程度は自由に動ける。しかし、そのためには自分が黒子に徹することが絶対条件だった。
そんなことが果たしてできるのだろうか?
黒子に徹するということは、見られているという意識を持ったまま、まわりに対して気配を消さなければいけないという思いを持っていなければならない。
部隊の上で演技をしている黒子の存在に気付いていながら、観衆は黒子を意識しないのは、黒子がプロであって、気配を消すだけの何かの魔力のようなものを持っているからなのだと思っていたが、それ以外に、黒子以上に、主人公が目立っていなければ、そもそも黒子の成立すらありえないものとなってしまう。
この場合の主人公は姉であり、姉に自分という黒子を従えるだけの力があるというのだろうか?
由紀子は少なくとも恭一に対しては、黒子である自分を従えさせることのできる存在だったのだと思う。しかし、その主人公がいなくなったその時、目の前に見えるのが、黒子の衣装を外したありのままの自分であろう。
そう思うと、自殺を図った時の最初に気付いた時、自分を姉だと思った彼が、次に目覚めた時は、由紀子という本当の自分を見つめてくれていることを、
「黒子の衣装を脱ぎ捨てた私を見ていたからではないか?」
と、実に都合よく由紀子は考えたのだ。
恭一が失踪した理由には、人間不信があった。一度自殺を図った彼は、とにかく臆病になっていた。人から何かを強要されれば、それを断ることができないくらいになっていた。それを巧みに狙った女性事務員が、彼を垂らしこんだ。
もちろん、婚約者を失って自殺を図ったということは知っていた。だが、その女事務員は、
「男なんだから、精神的なことよりも、肉体的な寂しさから、女が色仕掛けで責めれば、必ず堕ちる」
と思っていた。
悲しいかな、それは成功した。
その女は自分が恭一をたぶらかしておきながら、いかにも自分が誘われたかのような写真を他の人に撮らせて、その写真で恭一を脅迫してきた。
「どうせ、記憶も曖昧で、精神疾患のあるような男なんだから、ベタな方法で十分にいけるわ」
と嘯いていた。
オンナは数人の仲間がいて、恭一がお金を使い込んだかのように偽装し、実は自分たちが会社の金を着服するように巧みに伝票を操作した。
その頃には、総務の仕事だけではなく、経理の帳簿の記入くらいの仕事も、補佐としてやっていた。
恭一に補佐をさせた社員自体が女の仲間だったのでたまらない。その男は、
「私はそんな指示はしていない」
と言えば、その男は疑惑の中から消えるだけだった。
あくまでも伝票操作は恭一だけで行ったものだと思わせるかのように装うように計画されていた。
だが、寸でのところで、計画は頓挫した。一人が計画を意図しないところで漏らしてしまったのだ。
単純なミスだったのだが、完全に致命的で、ただ、犯人側に都合がよかったのが、自分たちの名前が表に出てこないことだった。
要するに犯人の名前が一切書かれていない計画書を見られてしまったという信じられないミスだったのだ。
そのために計画は中止され、恭一は計画に参加させられる寸前で何もなかったことになったが、逆に、何も言ってこない彼らに対して恐怖が募ってきて、そのまま人間不信に陥ってしまったのだ、
それはそうだろう。何かの悪だくみのために、脅迫され、手伝わされそうになっているという状態を分かっていただけに、急にそんな連中から何も言ってこなくなれば、
「これでよかったんだ」
と楽観的に考える人間もいるだろうが、普通は何も言ってこないことで、悪い方に考えてしまうのは、恭一に限らず、精神疾患のない普通の人であっても、同じことだろう。
特に精神疾患の強い恭一には、そんな連中の気持ちが分かるはずもなく、今の自分の立場を考えれば、平静でいられるわけもなく、完全に梯子を掛けて昇らされた場所で、梯子を外されてしまった感覚でしかないに違いない。
そんな状態を恭一は、日々苦しみの中で生活することが苦痛以外の何者でもなくなり、このまま自分が消えてなくなるか、それとも何もかも捨てて、どこかに行くしかないと思われた。
精神疾患がありながら、こういう現実逃避の計画への頭の回転には、疾患は関係那なった。
むしろ他の人よりも冴えていたと言ってもいいかも知れない、
幸い、お金も使うことはなかったので、安い給料でも、蓄えはあった。さらに、計画がとん挫したおかげで、やつらから、
「これからの計画に必要になだから」
ということで、少々のお金は貰っていた。
それを返せと言われない分、使うこともできる。
「交通と、当座の宿泊代くらいにはなるだろう」
という程度のお金であったが、ありがたかった。
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次