血の繋がりのない義姉弟と義兄妹
という言葉であれば、甘えているという気持ちを最小限に抑えることで、由紀子は義兄を敬うこともでき、密かな淡い恋心を隠しながら、慕うこともできるようにしたかった思いだった。
今までに一度も、
「お兄さま」
と言ったことはない。
「お兄ちゃんという言葉も口が裂けてもいうことはなかった。今回のように、姉がいなくなってしまったことで、思い切ってお兄ちゃんと言いたかった気持ちがあったはずなのに、どうして出てきた言葉がお兄さまだったのか?」
と思えるのだった。
由紀子にとって、何が大切なのか、考えさせられた気がした。
それにしても、記憶というものはどうなっているのだろう?
―ーどういう種類で構成されているのか?
と言った方がいいかも知れない。
一つの事実を元に、現実が構成されているのだとすれば、記憶というものも、何か一つの強力な事実を元に残っていくものなのかも知れない。
夢というものが、記憶によって作り出されたものであるならば、記憶喪失の人が見た夢は、そのすべてが勝手な想像でなければ、記憶はやはりどこかに残っているものであり、それを封印しようとしている人が自分なのか、それとも、何かの見えない力によって封印されているものなのかによって、夢というののへの意識が変わってくるだろう。
由紀子の感じている夢とのものへの感覚は、まず、
「怖い夢ほど覚えているものであり、もう一度見たいと思う夢ほど、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
という感覚があった。
もう一度見たいと思う夢は、二度と見ることができないと由紀子はこの間まで思っていた。しかし、ある時に見た夢で、目が覚めるにしたがって、
「忘れたくない」
と思いながら、夢から覚めていたその時、
「この夢、前にも見たことがあって、その時も忘れたくないと思ったのではなかったか?」
と感じていた。
自分の中では繋がっていることであっても、
「夢とはそんなに都合よく見ることのできるものではない」
と思ったことで、逆にその時は、前に見たことがあったということを意識できたのではないだろうか。
似たようなシチュエーションであっても、いつも同じことを考えれるとは限らない。夢を見る時の体調であったり、夢に入り込む時の心境によって、まったく変わった意識を持つのが故を見るということなのかも知れない。
由紀子は、恭一に夢を見ていたのかを聞いたのは、今の恭一の見る夢が、自分とどれほどの違いがあるのかというのを知りたいという思いがあったからだ。
恭一の心境を思い図ることもできないくせに、夢のことが分かるはずもないことを理解していながら、由紀子は恭一にできるだけ近づきたいと思っている。
だが、自分で苦痛を理解している時は、その辛さをまわりの人に知られたくないという思いがあるのを分かっていた。
あれは中学生の時だったが、学校が坂の上にあり、通学を徒歩でしていた時、小学生の頃からのアレルギーの関係で、ほとんど運動らしい運動をしてこなかった関係で、時々、足が攣ってしまったりしたことがあった。
足が攣る時というのは、予感めいたものがあるようで、
「あっ、痛い」
と思った瞬間には、すでに身体中が固まってしまって、身動きが取れなくなってしまっている。
きっとそんな自分をまわりから見ると、自分で感じているよりも何倍もつらそうに見えるのではないかと思った。まわりから必要以上に辛そうに見られることで、痛みが増してくるという負のスパイラルのような現象から、少しでも痛みを抑えようとするには、まわりの人に悟られないようにするしかなかった。
だから、痛くても必死で我慢しようと思うのだ。
痛みを堪えていると、その表情は完全に内に向かっての痛みとなり、必死に我慢している自分は、痛みを忘れようと、まるで夢のように感じようと思うのではないだろうか。
そんなことができるはずもなく、結局、痛みをこらえるという意識を何とか無意識に感じるようにするのが一番いい方法だという結論に至るのだが、それを達成させるためには何をしなければいけないのかが分からなかった。
由紀子は、さっきまで考えていた恭一の記憶の欠落が、今回一度眠ってしまったことで、様子が違っていた。
さっきは由紀子のことを姉の唯子だと思っていたのに、今回はその意識を持っている。しかし、前に見た夢を覚えていると言えるのかどうか微妙なところだった。
なぜなら、先ほどの夢で、誰か女性を見たという意識はあるのだが、それが最初の姉ではなく、由紀子に代わってしまった。それは、
「目の前にいたのが由紀子だったので、さっきも由紀子を見たという感覚から来ているのだろうか?」
と考えてもみた。
そこで一つ気になったのが、さっき目が覚めてから、二度目に目を覚ますまでの間、眠くなってから眠ってしまい、その時に夢を見たという感覚があるのだという。
夢を見たことが失った記憶の断片に何か別のものを結び付け、夢と現実の境目が分からなくなったことで、矛盾していることでも、納得できる感覚を持つようになったのかも知れない。
記憶の欠落を、
「精神疾患」
のようなものとして見るのであれば、欠落した記憶を夢が補っているのかも知れない。
そもそも、人間というのは、皆が皆記憶を正確に覚えているわけではない。ちょっとしった時間しか経っていないのに、さっきまでのことを半分近くも忘れていたり、一度見ただけの人の顔は、そう簡単に覚えられなかったりする。
同じ記憶するにしても、人の言った言葉はまったく覚えていないが、その人の顔は少し見ただけで忘れることはないという人もいれば、逆に、人の言葉は一字一句忘れることはないが、人の顔は、何度見ても覚えられないという人もいる。
人の顔を忘れていくにも段階があり、
「すぐに忘れてしまうわけではなく、徐々に忘れていって、ある程度までくれば、そこから一気に忘れてしまうものだ」
と、人の顔を覚えられない人は考えているようだ。
実は由紀子も人の顔を覚えるのが苦手で、一時間くらいしか一緒にいない相手であれば、何度も会っていないとその顔を忘れてしまうのだった。
そもそも、覚えられないのか、それとも忘れ去ってしまうのか。どちらなのかと考えたことがあったが、由紀子は、覚えられないと思っている。忘れるというのは、最初に頭の中に刻み込まれたものが徐々に消えていくものであるが、覚えられないというのは、最初から何もないところに意識を構成していく中で、覚えておかなければいけないという気持ちがプレッシャーになって、次に会った時、
――もし、相手を間違えたらどうしよう?
という気持ちが大きく作用し、最初からあるものが消えていく感覚であれば、何とか忘れることはないと思うのだった。
それは夢の感覚とは逆のように思う。
夢というのは、明らかに自分で意識して見たものだったはずだ。
――無意識に見さされた――
という意識もあるだろうが、怖い夢のように、自分で望んで見ているわけではないことから、無意識だということはありえない気がした。
作品名:血の繋がりのない義姉弟と義兄妹 作家名:森本晃次